政治的な発言ポジションとしての《当事者》

マスコミ出演や著作の形を取らなくとも、《当事者》がなにがしかの形で自分の声を伝える努力をすれば、そこにはすでに 「That's 当事者の声」 の尊重構造が出現してしまいます*1。 ▼ひきこもりは、とりわけ「不可視かつ声がない」存在ですから、「当事者である」という人がちょっとでも発言を試みれば、真の未開地から出現した伝説の原住民が語りだしたかのような尊重を受けることになる。 ――そこでは、誤った代表性と公私混同とが、常態となってしまう


番組の中でも触れていますが、私の本は前半と後半に分かれていて、前半は私の(まさに特殊な一事例でしかない)個人史の記録。 後半は、公共的な意義を目指した「ひきこもり論」になっているのですが、どうやら永冨氏は、拙著の後半部分についても、「上山個人にしか当てはまらない私的価値観の押し付け」と考えているようです。 ▼私がこのブログや原稿仕事を廃業しても、「議論を試みる当事者」が出てくれば、また同じ構図で批判されるでしょう――「内容」という以前に、「経歴と立ち位置」のゆえに。


私は、「《語られる存在》から《語る存在》になる」ことを目指していたのですが、《ひきこもりの当事者発言は、原理的に禁止されるべきである》という主張*2は、理論的な装いを持つがゆえに、政治的に機能するものです。 それゆえ、これへの反論も、単に感情的にではなく、「理論的に」する必要がある。


そこで気付いたのですが、実は「理論的に」それゆえ「政治的に」反論すべきである、というその要請自身が、ここでの問題にパフォーマティブ(行為遂行的)に答えを出しています。 ひきこもりに限らず、当事者発言に権限があり得るとしても、それには関係者相互の事情を公正に調整する役割理論的な制限が必要だし、そのような制限を身に帯びつつ、政治的に振る舞うことに成功しなければならない。
ひきこもり問題の当事者や経験者は、単に野放図に肯定されるべきでも、単に無条件に抑圧されるべきでもなく(いずれも政治的に不当といえる)、対等な権限を持った関係者の一人として、政治的な交渉主体になる必要がある(それがひきこもり支援の目的)。 ▼それは、「ひきこもりは肯定されるべきか否か」という問いに対する、私なりの答えでもあります。


「誰かが当事者として特権的に注目され、しかしその特権が剥奪される」という順番ではなく、むしろ話は逆で、「全員が交渉関係の当事者として、欲望のリアリティと責任の理論的根拠を問われる」。 ▼このような意味において、ひきこもり支援は「被支援者を政治的主体にすること」であり、そのような活動を通じて、支援者自身が、みずから政治的主体であることに目覚める――。
ひきこもり支援は、相互に政治的主体として覚醒するプロセスである、と。

  • 最低限のルールとして確認しておけば、
    • 「ひきこもりの経験当事者である」ことは、いったんは発言が注目される理由にはなるでしょうが、発言内容が情報そのものとして聞いて魅力あるものでなければ、聞くに値しない。 つまり「当事者発言」は、内容そのものとして、支援者や学者と同じ試練に晒される。 ▼当事者であるという保証枠によって、「聞いてもらえるかどうか、価値があるかどうかわからない」という賭けの要素を免除されたメッセージには、「取材対象」という価値しかない。






*1:「一般人が発言するとすごい反論が来るが、当事者が発言するとみんなシーンと聞き入ってしまう」など。 ▼たとえば2ちゃんねるの書き込みですら、「当事者だな」と気付かれた途端、発言の意味や重みが変わってしまう。

*2:私に対する「議論をやめろ」という主張は、以前から存在していました