「自分は○○の当事者だから、特権的に扱われる権利があるんだ」というたぐいの当事者ナルシシズムは、単なる交渉主体としての屹立以上の権限が自分にあると思い込んでいる。しかし当事者性とは、努力のフレームを策定する反撃にすぎない*1。 自己分析もなしに自分の言いたいことを無際限に主張して聞き入れられると思い込んでいるとすれば、単に勘違いであり、不当な権利主張にすぎない。
「自分たちは当事者なんだ、オー!」というたぐいの気勢においては、聞くに値する分析より、自分たちの特権性を確認するナルシシズムばかりが目につく。それは実は、「〜であるべきだ」という硬直したべき論で自らの当事者性を抹消しているにすぎない。自己の特権性を主張するだけの当事者発言は、むしろ自らの当事者的自己分析を回避している。
当事者的に取り組むとは、単に私的な事情を誇示することではなく、手仕事としての自己分析や制度分析を、匿名的に行なうことではないのか。べき論の主張においてみずからの当事者性を「なかったこと」にするのではなく、自分が実際にどのような力関係を生きてしまったか、生きてしまっているかを、容赦なく検討に付すこと。
弱者擁護を叫ぶ左翼や右翼のご本人たちには、この意味での当事者意識がまったくない。だからこそ、表舞台でリベラルなことを言っている人が、プライベートではひどい抑圧者であり得る。弱者擁護のアリバイにおいて、みずからの権力性を不問にし、もってみずからを絶対化する*2。
「俺は、自分が当事者性をもたない問題に取り組むことにプライドがあるんだ」*3というのは、いっけん格好良く見えるし、実際に弱者のためになる。しかしそれは長期的には、みずからの当事者性を回避した卑劣な態度でしかない。「べき論」の標榜において、人はいくらでも都合のよい「正義の味方」になれるだろう*4。 ▼その意味では、ひきこもっている人も、自らの当事者性を問題にせざるを得ない。当事者性を問題にするとは、関係の中における自分の責任を問題にすることでもある。ひきこもっている人は、生き延びているのだから、一定の力関係を実際に生きている。少なくとも、扶養されている家族との間で。
自分を100%特権視する当事者ナルシシズム*5と、そういう当事者を100%特権視することでみずからの政治的アリバイを保つ弱者擁護は、お互いに持ちつ持たれつの関係にあって、「当事者」の差別的カテゴライズを維持している。それは、リアルな力関係におけるお互いの当事者性をみずから問題にするという意味での分析的当事者論を欠いている。「自分のこと」を問題にするのではなく、「自分以外の誰か」を責めたり支援したりして自己維持している。それは、単なる制度順応でしかない。
差別的特権主張でしかない当事者論は、本人の側も、支援者の側も、幼児的ナルシシズムを発露しているだけであり、短期的・戦術的には有益なスタンスであり得ても、長期的な方針ではあり得ない。それは、公正かつそのつど脱法的な、プロセスとしての自己検証を欠いている。