交渉主体として、自治的・脱法的に介入すること

それぞれの批判的思想の要点は、どのようなスタイルで脱法的(脱制度的)取り組みを奨励しているかで整理できる。

  • 「政治家は遵法だけではダメで、いざというとき、国のために脱法的に振る舞えなければならない」(宮台真司*1
  • 不可視かつ無声の無能力者の存在*2に忠実になろうとすることで、「違法行為ですら許される」とする思い込み(右翼でも左翼でも)。
    • そこで忠誠を目指される無能力者は、「語らない他者」であり、他者とはいえない(異論を語ってしまえば、無能力者としての資格を失う)。その「無能力者に忠実になろうとする独りよがりの信仰」が、饒舌に語るブンガクの彩りでますます独りよがりに悦に入る*3。 ここで「無能力者」は、支援者による逸脱のアリバイとなる(参照:貴戸理恵の事案)。 古き良き労働運動における「プロレタリア=当事者」*4
  • やや本題を外れるが、学問的な活動では、既存の「従わなければならない考え方」を逸脱し、「本当に従うべき考え方の筋道」に過激に従うことにより、それまでの考え方からすれば許されないような、あり得ないような必然性の筋道をたどって見せることに自由がある。(最高の必然性を逸脱的にたどることに自由がある)



当事者性とは、生きられてしまっているストレスやトラブルの力関係(の一端)であり、「自分の場所で自分のことを考えてみる」という、取り組みのフレームにあたる。それは単に「弱者性」ではなく、強者であっても、強者であることにおいて当事者性を生きている。力関係が、自分という場所で分析される(強者や弱者を差別的にカテゴライズして済む話ではない)。
何かに「取り組む」とは、自然な(なし崩しの)流れに自分を介在させ、そこに不自然な(脱法的な)流れを生み出すこと。「自分のことに取り組む」とは、自分のことを自律的に(脱法的に)引き受けようとするしんどい作業であり、「○○の当事者として考える」とは、交渉関係のための作業フレームを設定することでしかない(特権が約束されるわけではない)。
それは、契約を原基とする近代社会において自分の事情*5を大切に扱い、「公正な交渉に取り組む」というだけのことであり*6自分の言い分を100%聞いてもらえる、ということではない。ほうっておくと、ただ周囲に流されて「されるがまま」になる自分が、「自分のことに取り組んでみる」ことを通じて、悲惨で投げやりな自己解体(それへの防衛反応としての実体的硬直)を脱し、取り組みのフレームを手に入れること。それは交渉の前段階に着手しただけであって、当事者的な取り組みや主張は、交渉の「条件」にすぎない。



*1:【参照】:「マル激トーク・オン・ディマンド」第326回「右翼も左翼も束になってかかってこい」(宮台真司×小林よしのり×萱野稔人) ▼【宮台本人による文字化】:「マキャベリウェーバー的に言えば、統治権力(政治家)とは市民社会を護持すべく市民社会の枠を逸脱すべき存在だから。むろん脱法の上で失敗すれば血祭りです。「血祭り覚悟で国民の運命にコミットする政治家と、この危険な政治家を監視する市民が必要だ」というのが「国民と国家の分離」の本義。」(「小林よしのりさん、萱野稔人さんと、鼎談しました」)

*2:サバルタン」云々。【参照

*3:「文学と呼ばれる営みを、《独りよがりのための彩り》に貶めてよいのか」という問いがあり得ると思う。もっとも私自身は、「文学」というフレームの設定にどのような意味があるのか、あるべきなのか、今はよくわからない。

*4:最近では「プレカリアート」という言葉も流通しているが、それは理論的範疇というより、当事者性を喚起するための運動体のスローガンに見える。

*5:弱者としてばかりではなく、強者としても

*6:自分の欲望や事情を努力のフレームとするのが交渉・契約だ