「メタ-当事者-学」?

ある社会運動に関わっている方とお話しする機会があったのですが、ひきこもりに関する活動で僕が直面する諸問題と、驚くほど同じ問題に直面しておられました。学問的ラディカリズムと現場のプラグマティズムとの齟齬(各々における戦略的無自覚さ)、当事者がみずからの「当事者性」に居直ること(当事者として批評されることがあり得るという事実への拒絶)、など。
(1)学問(2)現場(3)当事者、の3者が、それぞれにおいてベタにみずからの属性ミッションを生きることしかせず、痛みを伴う「メタ視点の導入」というチャレンジをしない。そこには、魯鈍な自己肯定(アリバイ主張)しかない。「私は○○なんだから、ちゃんとやってるじゃないか」。


私は以前、「メタ当事者学」という言い方をした。このときには、「当事者学」とは何であるかを考える、というだけの意味だったが、お話を通じ、さらにいくつかの示唆を頂いた。暫定的に整理してみる。

  • メタ的な当事者学
    • 当事者であるとはどういうことか、またそこから発生する「当事者学」とは何か。
  • メタ当事者の学
    • 属性的には明白な紛争当事者であるわけではないが、問題の性質を考察することを通じて(つまりメタ的に)、紛争の当事者になる(私の言い方で言うと「課題当事者」にあたる)。そういう現象について考察する。
  • メタ的であることの当事者学
    • どんなジャンルの活動であれ、その活動そのものをメタ的に考察することを試みる人が、ごくわずかにピンポイントで存在する。そのような人々同士は、具体的に取り組んでいる問題はまったく違うのに、なぜか多くの問題意識を――異様なほど――共有する。これは何か。