「当事者かどうか」ではなく

私は親御さんたちから、「当事者のリアル」の代弁(翻訳)者になってくれ、という役割をまず期待された。 最近では、保健師など、専門職のかたからのご依頼も頂く。 現場の情報格差をなくすために、それは重要な仕事で、今後も続けたいと思うが、私の口にする≪リアル≫は当事者全員が共有したがっているリアルではないし、かりに私が多数の当事者と≪リアル≫を共有できたとしても、それが圧倒的に「少数かつ弱者」のリアルであり、むしろその(社会から排除される)≪リアル≫ゆえに社会に入っていけないのだとしたら、状況は何も打開できない。 もっと冷酷なことを言うなら、≪リアル≫というのは、コミュニケーションのきっかけをくれるぐらいで、当事者の置かれた過酷な社会状況(とくに就労問題)を変えるとは思えない。*1


主観的な「リアルや苦痛」を説くことは、それだけでは「僕のことを分かってください!」という叫びにしかならない。 それは身近な人と共感を分かち合い、最初のステップを踏み出すには必要な契機だとしても(私も最初はそこからだった)、それだけでは「排除された弱者同士の慰め合い」にしかならない。 【そういうものは、金と権力をもつ者の溜め息1つで吹き飛ぶ。】
だから具体的には、主観的要因は「説得材料の1つ」ぐらいに考えて、もう一方で≪状況打開のためのリアルな手続き≫を模索せねばならない。 → そのときに重要なのは、「当事者かそうでないか」という区別ではなく、≪真に有効かつリアルな手続きの模索≫という課題を共有できるかどうかだ。







*1:「過酷な社会状況についてのリアリティ」を別の人間と共有できれば、そこから広がってゆく活動も期待できるかもしれない。 そういう意味では、当事者同士の議論にも期待したいが・・・。