むしろ≪リアルな手続き≫の創造

「謎として可視化された弱者」の問題に取り組むのは、その謎が生まれてきた背景を変えるためだと思う(環境を変えるだけではなく、当事者へのアプローチの仕方も含めて)。 だとすれば、「リアルに創造」されるべきなのは、「謎」(それは弱者としてすでに存在している)というよりは、その謎にアクセスするときの≪手続き≫ではないだろうか。


リアルな手続きを模索するときに必要な「理論化」=「リアルさの創造」は、知的昇華のためではなく――それでは私は動機付けされない――、≪努力のマトを外さない≫ためだと思っている。 つまり、「謎への手続き」が的確になればなるほど、自分が深く動機づけられる。 それが本当にリアルさを持った的確さならば、当事者や専門家などの他者をも魅了できるのではないか。 つまり、「届く言葉」になっているのではないか。


「謎に震撼する」タイプのリアルさではなく、「手続きの的確さに感銘を受ける」タイプのリアルさ。
「共感」してその場で終わってしまうリアルではなく、共有できる「努力目標」としてのリアル。
当事者や環境を巻き込んだ具体的施策の実現に必要なのは、そうしたリアルさだと思うのだが。