「努力のベクトル」について再考 ―― 誰にとってのリアル?



斎藤環氏は上記『中央公論』掲載文章の末尾で、「わからなさの維持」についてこう述べている。

 啓蒙的段階を過ぎ、私が引き続き「専門家」を自称し続けるならば、今後はひきこもりの「わからなさ」についてより多く語るべきなのかもしれない。 「専門家」とは何にでも回答できる人のことではなく、「何がわからないか」を正確に知っている存在のことなのだから。 それゆえ私は、必然的に精神分析に依拠することになる。 常に「分析の不可能性」から出発し、必要十分な時間をかけて、乏しい情報からリアルな謎を創造する。 そのための技術として、精神分析に勝るものはない。 そこから脆弱な謎を秘めた他者へと向けて、届く言葉に工夫を凝らすことは、私たちの寛容性の最後の拠り所となるだろう。



「専門家とは分からなさを正確に知っている人のことだ」というのはよくわかる。*1
問題は、その「わからなさ」から創造されるべき「リアルな謎」の目指すところだ。
斎藤氏が「当事者に直接届く言葉」を作ろうとしているのは、「アウトリーチ」の問題だと思う。
そのときに目指されている「届く言葉」は、「実存的心情」に届くのか、それとも「合理的判断力」に届くのか。


創造されるべき「リアルな謎」は、当事者の方向だけを向いていてはいけないのではないか。
政策論を目指すならばそれは当然だし、結果する施策が当事者を魅了できるなら、あるいは結果する施策がアウトリーチを成功させるなら、それに至る手続きとしての≪謎のリアルさ≫は、当事者に届く必要はない。


それに、「当事者のリアル」 「大多数者のリアル」 「学者のリアル」 「政策決定権者のリアル」 は、それぞれ違うと思う。 どのリアルを目指すのか。
大学院生のかたに話を聞くと、最近の大学生は、友人のグループが極めて細かく分断され、かつグループ間で相互に侵害しないよう、非常に気を使うという。 つまり共有されている≪リアル≫がグループ間で違っていて、お互いに棲み分けている。 単純な話、私にとっての≪リアル≫は、ごくわずかの人にとっての≪リアル≫でしかないのではないか。 → 誰とどんなリアルを共有すればいいか――言葉を換えれば、「誰を説得することを目指せばいいのか」というのは、単純な問いではないのでは。







*1:物理学とか法律の専門家をイメージすればいいだろうか。