我ながら圧縮度が高すぎてよくわからんので、もう一度。


「必要なステップ」としての≪謎≫化

不可視の弱者(他者)は謎にはなり得ない(存在に気付かれていないのだから当たり前)。 尊重も施策も起動しない。
事件や報道をきっかけに、大量に存在するらしき「不可視の他者」がイメージされるが、既存社会は、この≪不気味な他者≫(弱者だが、弱者と思われていない)の存在を、既存システムの論理を温存したまま回収しようとする。 他者(と思われていた不透明さ)は不可視なままですみずみまで透明になり、尊重すべき要因は何もなく、「糾弾・差別」が起動する。 → 謎になっていない弱者は、顕在化しても糾弾・差別されて再排除される。 自分の限界状況の責任を全て負わされる。 「お前の順応努力が足りない」と言われる。


不可視な弱者は可視化される必要があるが、「可視化」は常に「謎化」でなければならない(さもなくば糾弾・差別されて終わる)。 だから、一般のかたから「お前らの事なんかわかりきっている」と思われている大量の弱者をいったん≪謎≫として尊重し、「その前に立ち尽くす」ことには、ステップとしての意義がある。
斎藤環氏の呼びかけ『中央公論』という、引きこもりとは縁もゆかりもない論壇誌(?)に載っているのだから、呼びかけとしての意味はあると思う。】



施策検討の起動因としての≪謎≫

ただしその際、「謎の尊重=追究」は、「他者の主体」そのものを崇拝していてもしょうがない。 当事者に届くメッセージ作成は試みられていいと思うが、きわめて難しいか、ほぼ不可能だと思う。 それよりは、具体的施策を検討し、それによって魅了するか、あるいは魅了せずとも、結果的に恩恵が行き渡ればいい。
「謎としての弱者」の可視化*1をきっかけにして、≪問い≫は状況(構造・制度)に向かい、「有効な介入的施策」を模索する方向に向かわねばならない(そのきっかけとして、「謎としての弱者」が尊重される)。
介入的施策検討の起動因としての、≪可視化されているのに謎にとどまる≫弱者。 それは容易に≪自明なバカ≫に転化し排除される。 → ≪謎としての弱者≫視点を維持する呼びかけの一方で、努力は介入的施策の具体化模索に向かう。*2



ただし

弱者本人が引き受けるべき「訓練」要因は消え去らない。 単なる保護ではなく、「どのような試練を課すか」の再検討も含めての≪施策≫だと思う。













*1:いちばん説得すべき相手は誰なんでしょうか。 つまり、「誰に向けて可視化」するのがいちばん有効なんでしょうか。

*2:1つの施策による一部の弱者の包摂は、必ず別の排除を生んでいる。そこで、「多元所属による排除ジレンマの解消」と、「棲み分け」ということをひとまず考えておきたい。 (政策論的にどんな話になるのかは不明) 【「選択された施策は、≪誰のための、どのような≫益になっているか」というのは、基本的な問いらしい。 ← 初学者のつぶやき】