昨日のエントリー分全体から考えたことを少しだけスケッチ


「不可視かつ透明」 ←→ 「可視かつ不透明」

自立して経済生活を送れる人の内面は、謎ではあっても放置される(非難されない)し、放置されていい(謎的な相手の自由の尊重)。 しかし引きこもり当事者の「主体の謎」は、謎に留まることを許されず、「お前らのことなんか分かりきっている。甘えだろ」と≪見透かされ≫、「完全に自明かつ透明な存在」として軽蔑され、差別される。 また、逆に「≪謎≫的な存在の自由を尊重して放置しよう」だと、事実上の見殺しになる(「構造介入的な社会政策」*1を待たなければ自力では自分の状況を打破できない)。


経済的自立人になり得ないまま不可視の存在に留まれば、ごく一部分が可視化された瞬間に、「自明かつ唾棄すべき存在」となる。 → 自立できないまま可視の存在となり、かつ不透明(謎)に留まる必要があるのではないか。 そのときに、「構造介入的な社会施策」への本物の必要性が自覚される。 【≪謎≫であることに失敗すれば、社会的コストなどの理由から、「甘ったれた馬鹿者ども」への強制労働(的なもの)の導入も検討される?】


「他者の謎」は否定神学的に信奉されるべきものではなく、介入的施策の起動因として尊重される。