イデオロギー的労務共有によって、ナルシシズムが共有される。

  • 精神疾患の患者を受け入れる」のは、単に規範の話をすればいいのではなくて、Social Work を引き受けろ、という労働命令になっている。
  • 歓待規範による左翼コミュニティは、お互いへの労働命令でつながっている。全体主義的命令である歓待規範は、ぜったいに自分を分析しない*1。 無条件に正しいとされているから。
  • 「他者を受け入れろ」という規範 ⇒ 受け入れの労務 ⇒ 「自分は他者を受け入れている」というナルシシズム
    • 逆らった者は、粛清。 「他者受け入れの労務に従わなかったから」。 労働命令に従わない他者は、抹殺してよい他者*2――それが左翼。
  • 他者受容の労務に提供される《絶対的他者》は、差別的に囲われている。受容されるべき《弱者=他者》が、コミュニティ労働のネタになっている。その存在を受け入れる労働で《つながる》。
  • それぞれの思想家とその周辺に作られるコミュニティは、「こういうことを考えれば働いたとみなしてやる」という、その思考の方向性が労務として共有されている。




*1:検証する必要があるのは、リアルタイムの関係実態であり、その変遷だ。 「形式的規範を確保したから、至近距離の関係性は放置してよい」のではない。 表向きのイデオロギー確保のために、身近な関係実態が抑圧されているケースを繰り返し目撃する。

*2:不思議なことに「ひきこもり」は、他者受容の労働をしていないのに、「働けない者」として絶対的他者のポジションを獲得するゆえに、被差別民として「受容されるべき相手」であり、他者受容に向けて労務を共有しなければならない相手ではなくなる。▼それゆえ、「ひきこもり当事者」というポジションを得ている間だけは、粛清の対象ではない。ところが労務介入的な意見を言い始めたり、ましてや “当事者同士” の関係性では、労務共有の関係性が生まれてしまうため、「自分たちと同じ労務に従事していない奴」として、粛清の対象になる。 ここの権力関係を分析し、その分析をもって関係づくりとなすのでなければ、つながりを作るのは難しい。