正義の自己顕示に終わる関係性ではなくて、《つながりかた》を問うべき

マイノリティ*1を受け入れる人は、その「受け入れようとしている」という態度でナルシシズムに浸るので、関係のディテールに再考察を迫られることを拒否することが多い。 「受け入れようとする」という、その一方的な態度じしんが生み出す抑圧もあるというのに*2

正義が、受容の量的側面しか見ておらず、関係そのものの質的側面を見ていない。 質の面(つながりかた)を検証すると、それは《善》に関わることとして、《正義》の下におとしめられる*3
関係性やコミュニティの臨床では、《つながりかた》を検証する権利は、死活問題になる。――既存の規範理論や政治思想は、《臨床》というモチーフを排除しているため、「コミュニティをどう営むのか、そこにはどんな関係性が維持されればいいのか」については、まったく稚拙な議論しか見当たらない。

そのことは、実際に集まりを作ろうとするときの拙劣さになって現れる。 現状では、「とにかく仲良くしよう」というような態度しか作りようがなく、危険極まりない。



*1:弱者や少数者

*2:「他者を受け入れているんだ」という、アリバイに基づいた関係構築。 実際に生きられた関係性の再検証は、そのアリバイのレベルを掘り返してしまうので、アリバイでナルシシズムを確保した人にとっては、どうしてもまずい話になる。

*3:ロールズの正義論では、各人が自分で抱える質的差異をもった《善》よりも、そういう善の前提となる《権利=正義》が優位にあるとされる。 私は現実にある人から、「上山さんの言ってるのは善でしかない。でも私は正義だから」と、かなり露骨な見下しを受けたことがある。 「善に対する正の優越(priority of the right over the good)」の主張は、具体的な人間関係で生きられる。 ▼参照:「善に対する正の優越」(児玉聡氏のサイト) ←追記:エントリー後に誤解のあり得ることに気づきましたが、私は児玉というかたとは何の面識もございません。