コミュニティの形をした支援

支援対象者のナルシシズムを守ることにおいて、支援者のナルシシズムが守られる。
この相互承認の繭(まゆ)が最優先で、あとの問題意識はすべて抑圧される。
現状に疑問をもつと、疑問をもった者が排除される。


関係性のスタイルの押しつけこそが、思想の押しつけだ。
それは何も、「支援者が押し付ける」だけではない。
支援される側も、自分のナルシシズムを優先し、批判を排除する*1


トラブルの全てが水面下で解決され、公の場所で検証されるということがない。
支援者やライターはひたすら秘密主義になり、陰湿な集団の特性がすべて現れる。
悪いことをした人間よりも、問題を《公開=素材化》しようとした人が糾弾される。


いちど支配的になった抑圧的な関係性が、なかなか解除されない。
コミュニティが、そういうスタイルのものしか見当たらない。
関係性の再構築が、暴力の形しかしていない*2



*1:支援において生きられる関係性の選択は、完全に「思想の選択」だ。 選びとられた関係性のスタイルには、その関係を支配する暗黙の設計図が仕込まれている(「支援対象者の言い分は絶対だ」など)。 そういう前提部分から問い直すのでなければ、関係性の暴力は検証できない。 たとえば、あいまいで複雑な事情を捨象し、「被害」という不当な関係意識に居直ることは、最悪の暴力なのだ。

*2:「ひきこもるか、泣き寝入りするか」の二者択一になってしまう。 ひきこもることを拒絶したうえで、泣き寝入りも拒絶するには、どうすればいいか。