自己検証がないという暴力

 継続的に攻撃を加えられると、とうぜん心身に異常が出てくる。 (略) まさしく「精神的な殺人」がおこなわれるのである。嫌がらせや軽蔑、侮辱がくりかえしおこなわれれば心身の調子がおかしくなるのは当たり前のことであり、孤立させられたり集団でいじめを受けたりしたら、相当のダメージや後遺症を残しかねないというものである。人にわからないようないじめで他人に信じてもらえなかったら、自分の感覚のほうが信じられなくなる。
 人はなにより人の悪意に傷つくのである。 「あの人が私を傷つけようとしている!」そのことに傷つくのである。悪意とはなにかと深く問いつめることによって、私たちは人の悪意というものに距離をおけるようになるかもしれない。

 その度合いに濃淡はあるだろうが、世の中にはモラル・ハラスメントの加害者という人種が存在するのだ。本書によると、それは<自己愛的な変質者>である。自己愛的な性格の特徴をいくつかあげると、誇大妄想的でたとえ業績がなくても、自分には才能があり、仕事ができると思っている。また人からもそう認められたい。自分が特別であり、自分のためなら誰もが喜んで尽くしてくれるべきだと思っている。自分の目的のために他人を平気で利用する。他人に対する共感に欠け、誰かが苦しんでいるのを見ても同情を感じない。他人を羨望する、などである。モラル・ハラスメントの加害者について言えば、これに加えて、罪悪感を感じず、自分を省みることができない、起こったことの責任はすべて他人のせいにする、などがあげられる。(「訳者まえがき」より)

  • Q、加害者は暴力を自覚することがあるのか?
    • A、加害者は自分が批判されると被害者になる。(ここで会場から笑い) 自然に攻撃の仕方を知っていて、自分を問い直す能力を持っていない。
  • Q、加害者、被害者、仲介者で話し合ってうまくいくか?
    • A、加害者のほかに一人自己愛的な人がいるとうまくいかない。
  • Q、被害者になりやすい人はいるか?
    • A、誰でも被害者になりうるが、どう身を守っていいか分からない人、他人をケアする人(守らず与える人)が狙われやすい。 また几帳面、罪の意識を感じやすい人、責任感の強い人なども職場のモラハラの標的になりやすい。



この「モラル・ハラスメント」という言葉では、「自分も加害者ではないのか?」という自己検証のなさそのものを問題にしようとしているようです*1
ネーミングがこのままでいいかどうかはともかく、コミュニティへの継続参加を考えるのであれば、この「モラル・ハラスメント」という言葉で議論されている内容は、どうしても無視できません。


DSM-V』では、「結婚暴力、児童虐待を代表とする二人(以上)の人間を包含する障碍」*2として、《関係障碍》という概念枠が準備されているようですが(参照)、社会参加の問題を、個人だけでも社会だけでもなく、もっと《関係》に照準する形で考える作業が必要です。

 「人間臭い」問題が、現実の職場での「労働問題」の大半を占めているのでしょう。制度論では解決できそうにないまさに「人間論」的な人間関係の問題は、ここ「学界」にもあります。だから、学者も人間問題が仕事にからみついています。それでも、制度論には有効性はあるのでしょうが、どうしようもない人間のサガのような事柄こそ、職場をおおっているのでは。私の言いたいのは、制度論で議論している当事者たちこそが人間論・実存論に巻き込まれているという事実です。



左翼系の方々は、他者の権力行為を攻撃するのはとても得意ですが、ご自分や自陣の権力行為については、ほとんど考えられていません。 ご自分は弱者を擁護していれば許されると思っている。――そもそもフーコードゥルーズの権力論は、まず何よりも、自分が生きている関係の分析である必要はないのですか。 なんでご自分の生きている関係だけが、メタに肯定されて終わっているのか。それこそ形而上的肯定ではないですか。


臨床上の苦しみは、思想のあり方と内在的につながっているはずなのに、「知的議論でアリバイを得た知識人が、臨床的趣旨など無視して偉そうにふんぞり返る」というシーンばかりを目にします。


自分の生きている関係を考えるという意味での当事者主義は、社会参加の臨床運動です。 メタに立って「自分だけ正しい」と言っているのではありません*3。 こっちもベタな関係性の中でダメージを受けながら、加害に手を染めながら生きているのですから。
自分も身体をもって生きているくせに、自分だけは100%正義でいられると思う幼稚な発想を認めていたのでは、とても関係なんか作れません。 「100%の正義」の幻想共有だけが関係性という状況では、ていねいな再考察は許されません。 関係性に関する議論だけが、唯物論の領域に未だないのです。



*1:自己検証できない人に直面しているのに、無防備なお人好しでい続けることの危険さは、コミュニティや社会参加において最もなまなましく遭遇する問題なのに、なぜかほとんど話題にされていません。 ▼「無防備なお人好し」も、自分を再検証しないダメな敬虔さです。

*2:DSM-V研究行動計画』 p.342、 中井久夫氏による「訳者あとがき」より

*3:「他者の歓待」を説く知識人じしんが極めて排他的であるというのは、よく見られます。 むしろ逆でしょう。 「歓待せよ」ではなくて、「どうやって排除を設計するのか」です。 他者というのは、嫌がらせを辞めてくれない人のことでもあるのではありませんか。