「マイノリティとコミュニケーション」


【議論内ネオリベ問題】

マイノリティという、本来的に「コミュニケーション弱者」である存在は、議論(コミュニケーション)において、常に弱い立場に立たされる。 「強い立場にある人々」は、そもそもマイノリティ問題などで議論する必要を持たない。 彼らの自由意志に任せた結果議論を拒否されれば、弱者は社会の中で排除(抑圧)されるしかないし、かといって議論を始めたとしても、既得権益層のほうがはるかに議論に習熟しており、優勝劣敗思想で言えばそれこそ反論できなくなってしまう――このジレンマ。

【マイノリティ間の利害対立】

弱者が弱者たるゆえんは、「自己責任」なのか、それとも「構造的排除」あるいは「自然の摂理」なのか。 各マイノリティにおいて事情は違うが、ある陣営の「権利主張」が、一時的に他の陣営を排除するプロセスに加担することすらある*1。 あるいは「降りられない弱者」と「参加できない弱者」への同時対応不能のジレンマ。 マイノリティ同士が「共に努力する」試みは、さまざまな仕方で挫折する*2

バックラッシュ

弱者への抑圧撤廃を制度的に実装する試みが、コミュニケーション拒絶の憂き目に遭い、しかもこの拒絶の素振りが、大向こうに「草の根的な説得力」を持ってしまう ―― こうした動きを、私たちは「歴史の泡沫」として捨て置いてよいのだろうか。 なんらかの言論介入が、必要ではないか。

【現場と理論の乖離】

コミュニケーションの齟齬は、同一マイノリティの内部においてすら頻発する。 現場は理論を軽蔑し、理論は現場の事情を知らない(特にカネの問題においてこの齟齬は決定的ではないか)。

正義の盲目性

かくのごとく錯綜した複雑な事情を持つマイノリティ問題に取り組むには、可能な限り正確なディテールへの配慮が必要なのだが、そのような≪正義≫の活動に必須となる「視覚像=表象(representation)」には、つねに原理的な「誤解(盲目性)」がつきまとう。 現代の技術環境は、このような「誤解」に基づく無自覚的なプロセスをひどく容易に加速しているように見える。

【当事者発言の意義】

これほどまでにコミュニケーションが困難な状況において、「当事者発言」は、一定の役割を果たし得るだろうか。 それともそれは、原理的に「不可視かつ無声」にとどまるはずの「本来のマイノリティ」に誤った表象像を与え、正義の盲目性をいや増すだけだろうか。

コミュニケーション?

社会的に排除され、あるいは不本意な形で社会に包摂されている社会的弱者(マイノリティ)は、どのように他者や社会と関わっていけばよいのだろうか。 その際、議論(コミュニケーション)というのは、本当に武器になるのか。 当事者や協力者は、そこにどのように関わっていけばいいのか。
あらためて、「マイノリティとコミュニケーション」という、個人的≪で≫政治的な課題(その可能性と限界)について、議論を共有してみたい。



*1:女性の社会参加の運動が、期せずして「働けイデオロギー」を強化しニート・ひきこもりなどを排除してしまう、など。

*2:私としてはこの問題は、「属性帰属と論点帰属」という観点で考えてみた。