アリバイと自己分析

マジョリティ側の社会生活には、無自覚的なアリバイが詰まっている。
属性レベルで弱者のそばに近寄ること*1は、それ自体がアリバイ作りでしかない場合がある。つまり、ある種の当事者性にすり寄るように迎合すること。それは、自分の当事者性を黙殺して、誰かの当事者性によって自分の正当性を担保することであり得る(そのようなものとして、実際に弱者の役に立つ)。


支援対象や自分自身の当事者性を、単なる「アリバイ」にする人が居る(「不安定就労者だから語る資格がある」云々)。 当事者性の標榜は、それ自体が自己分析の拒否であり得る。弱者擁護で自分の正当性を担保する人は、その「自己分析の拒否」を共有する。▼お互いの関係を解体してしまいかねないフェアな自己分析は、そのつど試される必要がある。

    • 貴戸理恵が自分のことを不登校の《経験者》と言わず《当事者》と呼んでいるのは、現状の自分が生きている関係への分析的言及の拒否であり得る。「自分は、とにかくニーズを汲み取られるべき存在だ」ということで、「コドモ扱いされること」を望んでいる。なのに、主張主体としては対等な権限を主張している(参照)。▼貴戸は、不登校については《当事者》ではなく《経験者》と名乗った上で、継続する「当事者性」(社会的な非対称性や内的葛藤)を問題にするべきだ。そうでないと、彼女自身の強者性を分析しないで済ますことになってしまう。単著を持ち、東京大学大学院生である貴戸は、すでに社会的には一定の力を手にしている。それを「不登校当事者」という言葉でごまかすべきではない。「自分で自分を研究する」という分析構図の重要性は、強者となった後にも続く。むしろその構図を維持し伝播するために、自分の強者性を活用すればいい。▼貴戸は自分が東大院生であることを悪いことのように語ることがあるが*2、完全に間違っている。強い立場を手に入れること自体を否定する必要は全くない。要はそれをどう活かすか。



強い立場がなければ、状況に介入的に関わることはできない。多くの左翼は、こんな程度のことすら自分のことについては誤魔化してしまう。強者を叩きつつ、自分の得た権力については分析的に言及することを拒否する(ごまかす)。アルチュセール・シンポで、みずからの教師としての権威性を嫌がった西川長夫氏に大中一彌氏が反論したのも、まさにこの点だった。 「教師としての権威が嫌だといっても、あなたは教師として給料を得ているではないか」(大意)。まったくその通りだと思う。▼これは、相手を教師として差別的に遇することとは全く違っている*3。その場で機能している制度的な権威や権力をいったん認めたうえで、「それをどう活かせるか」を当事者的に検討する必要がある。


関係の一端を担う一個人として、「これはお前の問題なのだ」ということ。その態度を、マジョリティ(脱落を経験しない側)にも要求すること。
「客観的理論」だけでも、「当事者の叫び」だけでもまずい。「理論的に考える」作業に、当事者的な自己分析の契機を内在化させる必要がある。



*1:意図的に生活レベルを落としたり、マイノリティの共同体に参加したり

*2:というより、そのことで不当に叩かれまくっている。不登校の支援者や経験者の一部は、貴戸が東大に居ることを悪く言うことで自分の政治的アリバイを担保することがある。惨めすぎる。

*3:「教師のくせに」「医者のくせに」などと、強者的属性を差別的にあげつらっても何の意味もない。