「当事者と自助活動」(筒井真樹子)

2001年3月というから、もう6年も前の文章。 いくつかメモ。

 言うまでもなく、「当事者」という言葉は訴訟法から出てきた言葉ですね。 すなわち、私がある友人に対し、100万円貸したから返せ、と裁判を起こしたら、私とその友人が「当事者」である、というところの「当事者」と、比喩の関係ですらなく同質の概念です。
 ここで私が法律の話を持ち出すのはちょっと聞きかじっただけの衒学趣味とか、人を煙にまくためでなく、問題が厳密に同質のものであるためです。

「厳密に同質」ということの内実を、ぜひ詳しく知りたい。 【参照:大屋雄裕「法的」と「政治的」の差異」】
そもそも、「当事者」という言葉の出自は、本当に訴訟法なんでしょうか。
日常語として使われるより前に、法律用語としての措定が先だった・・・?



 ここでの「当事者」は、かれらの言説の植民地、かれらの言説を正当化するための素材であり、言説の搾取の対象でしかなかったわけです。

不登校・ひきこもり業界で見聞きしたことに関連して、非常にうなずける。
どのように振る舞うのが「社会的に適切」なのか分からなくなっているため、支援者の言動を模倣することで社会的な居場所を獲得しようとする「当事者」もいる*1



 それがいつのまにか「当事者」の意味が「属性」あるいは「アイデンティティ」と同視され、「当事者ナショナリズムとでもいうべき状態に陥りつつあるという懸念は、私も共有しています。 あるいは、ある雑誌論文で指摘されていましたが、「当事者」は左翼運動の「労働者」という語にすりかえられた結果、前述の従来型の運動と差異がなくなったようにも思えます。

be動詞で語られる「当事者」は、つねにこういう話になる。 過剰な特権化と差別化。



 とりわけマイノリティの場合そうですが、「声」を有していなかった当事者個人がとりあえず自分の「声」を持つには、まずはコミュニケーションを成立させることから始めなければならないからです。 この点、あまりに属性の偏差が大きい者が入るならば、コミュニティ内部の関係性すら変容してしまい、構成員間のコミュニケーションすら正常に行われないでしょう。

共感可能性がある程度担保されていないと、会話が成り立たない。
ただそこには、同質的であるがゆえの排除も機能する。 「深刻度競争」というのもこの問題。



 ある特定の人物の利害に絡む問題に過ぎないのに、それがあたかも公共性を有する問題であるがごとく語られたり、あるいはマイノリティだから当然に権利が認められてしかるべき、という独善に陥る危険性です。

運動体による「当事者主義」は、ときどき「反省の拒否」と同義である場合があって、辟易します。 当事者を名乗れば何でも許されるということでは断じてない。
擁護対象の弱者性を担保にした「大文字の正義」を語ることで、みずからの言動の当事者性を回避できると考える*2のもおかしい。 正義は、それ自体が固有の欲望において構成される



 一方で、かかる当事者自治がないような社会においては、マイノリティ個人が直接市民社会に晒されることになり、「声」を失うか、あるいは強者により一方的に「声」を収奪されるかであるように思います。
 むしろ、当事者コミュニティの次元での合意に基づく表現が市民社会なり思想の自由市場に売りに出されることによって、デモクラシーが成り立つといっても過言ではないでしょう。

ある程度「声」が強さを獲得した時点で、ほかの強者たちの声と混ぜ合わされ、その権限主張が正当性を持ち得るものかどうか、公正に検証される。 ▼特権化はおかしいが、「声」が弱すぎるようでは、検証のテーブルにさえつけない。



 一旦市場に出された後は、マイノリティーの意見は、他の人の意見が尊重されるべきであるのと同様に尊重されなくてはいけませんが、何らかの特権を持ってはいけないのはいうまでもないことです。 (中略)
 また、思想の自由市場に飛び込む能力を獲得した人は、むしろ当事者コミュニティにこもったり、それを盾にとるような行動は慎むべきと思います。 「自助を卒業した」という言葉がありますが、これは他者と向き合う能力を獲得し、当事者コミュニティを出ることを言うと思います。

この短い文章の中に、フェミニズムの歴史に対する意見表明が含まれているらしいことがようやくわかってきました*3




*1:ギャグのセンスまで模倣することがある。 弊害は無視できないが、社会順応における「守破離」の考えからすれば、悪いとばかりも思えない。

*2:「正義の味方」ナルシシズム。 しかし、正義の味方である分、それによって恩恵を受ける人たちにとっては「ありがたい存在」として機能する。 ▼理不尽な暴力によって恩恵を受ける人がいる。

*3:cf.野崎綾子正義・家族・法の構造変換