理不尽感としての「泣き寝入り」

交渉弱者としてのひきこもりの問題を、正義やリベラリズムの議論と架橋できないか。
人権や労働問題に解消できない、ひきこもりに特有の「困難のディテール」は、どのように構成されているか。 それは社会的には、どのように位置づけられるべきか。


拙著(2001年) p.194-5 より。

 私は、ひきこもりって、「泣き寝入り」の極端な形のように思うんです。 さきほどは、こむずかしく「政治」とか言いましたけど。 要するに、「言いたいことが言えない」、泣き寝入りしてしまう、その積み重なりの極限が、ひきこもりではないか。
 泣き寝入りというのは、外の人間関係についてもそうですし、家族の中での価値観の葛藤においても、そうです。 ひきこもりの人は、よく「ずっと我慢させられてきた」といって親を責めるのですが、自分の中にあるもろもろの欲望や衝動について、「泣き寝入り」してきた、と告白しているんだと思うんです。
 私は、「優等生」というのは、要するに究極の泣き寝入り主義者だと思うんですよ。 「自分がどうしたいか」ではなくて、「周囲に何を期待されているか」、それに従って行動してしまう。 これって、よく考えたら「泣き寝入り」です。
 親は親で、子供との関係において「泣き寝入り」しているのかもしれません。 特に、ひきこもりにおいて子どもの興奮状態がひどくなると、「黙って言うことに従う」以外なくなるご両親が多い。 「息子は、ウチの皇帝なんです」とよく言われます。
 親も子も、「泣き寝入り」せずに生きる努力をはじめたいものです。
 繰り返しますけど、ひきこもり当事者にとっては、いきなり「泣き寝入りするな」とか言われても、無理です。 やはり具体的に話の通じる相手に出会わないと。
 ひとまず、親が、ご自分たちなりの仕方での「泣き寝入り」からの脱却を、考えられてみてはいかがでしょう。 個人として、社会人として。
 「泣き寝入り」というのは、「ひきこもり」のキーワードだと思います。

内発的な動機づけのリソースとして、
すでに苦しんでいる理不尽感を問題にすること。


ひきこもり支援の失敗は、多くの場合「自発性の押し付け」にある*1。 そうであれば、本人の中にすでにある自発性のリソースとして、「泣き寝入り」「理不尽感」という要素に注目する価値があると思う*2
理不尽感は、相手のある話であり、抗議してもダメかもしれない。 下手に報復したら、自分が逮捕されるかもしれない*3。 ▼当事者を擁護したところで無条件のアリバイが確保できるわけでもない。 そもそも、何をどう擁護していいのかもわからない、あいまいな話であり続ける。 その居心地の悪さを検証し続けること。





*1:参照:「対談:斎藤環×鈴木謙介

*2:もちろん、「忘却する」という選択肢も含めて。

*3:たとえば高校時代のいじめ被害について、30歳を過ぎてから「なんとかしたい」と思っても、少年法や時効に阻まれ、直接的な抗議の方法が見当たらない。