「「泣き寝入り」という言葉の暴力」(高橋りりす)

 「泣き寝入りした」と言われる被害者も実際には必ず、なんらかの対応をしている。 私の場合も人に相談したり、大学のさまざまな窓口に訴えたりした。 もし大学側がきちんとした対応をしていれば、私は「泣き寝入りした」などとは言われなかったはずだ。 つまり、「泣き寝入り」とは「被害者が何もしなかった」ことを表しているのではなく、「周囲がまともな対応をしなかった」という事実を表している。 (中略)
 「泣き寝入り」という言葉は、被害を受けても声を上げられない状況、声を上げても回りが無視したり口封じをしたりする状況、それを許す社会や組織の責任を、被害者の責任にすり替えてしまう。 「被害者が泣き寝入りをするから次の被害者が出るのだ」といった発言さえ、反性暴力運動の中から聞こえてくる。

「泣き寝入り」という言葉に注目する以上、参照しておきたい文章。


「泣き寝入りするからいけない」と、規範を押し付ける「説教」ではどうしようもない*1
「そうするしかなくなっている」事情について検証すること。
ひきこもりもそうだが、ある個人が交渉弱者に陥っている理由については、さまざまの事情を多層的に考える必要がある。 病気や個人そのものの脆弱さだけでなく、労働市場、司法制度、規範環境など。


泣き寝入りという要因への注目は、そこに考察の場所としての「当事者」を構成する。 その枠組みは、努力を続ける上での重要な社会的資源となる。 ▼それは、社会的に構成される特権性の枠組みといえるが、無条件にすべて許されるわけではない(当然だ)。 その権限枠は、どのように特権的なのか。



*1:それは、泣き寝入りを糾弾した側が「自分は正しい運動をしているんだ」という自意識に酔うことでしかない。 ▼しかし、そういう硬直した標榜すら、政治的に有益な局面がある。 「発言内容」と、その発言の「政治的効果」については、つねに分けて考える必要がある。