議論フォーマットの再確認――「不登校中心主義」ではなく

    • 「オールニートニッポン」の番組の一つ、「貴戸理恵の不登校系トークラジオ」への出演が決まったので、その事前メモを記してみます。 番組は9月7日(金)、午後7時〜9時で、私の出演は三部構成のうちの「第二部」とのことです。



不登校を中心化するかぎり、いつまでたっても「学校」を中心化して語ることになる。しかし、問題の本質は「社会生活が送れない」であり、焦点は経済生活にある。「不登校」は、そういう大きなフレームの、人生の早い段階での話であり*1、せいぜい20代までしか使えない。▼不登校を中心化するから、高齢化した事例は「もう○年も経っているのに、まだ復帰できない」という図式で見られてしまい、本人も恥の意識を強める。問題設定の仕方自体が苦痛を強め、問題をこじらせる。

    • ある不登校関係者は、イベントに出演した私に対し、「ひきこもりの経験者として出るなら、若くなければいけない」という考えを示した(「賞味期限」という言葉まで使った)。その人物は、父母への講演では「いつまでも引きこもっていていいじゃないですか!」と説教しながら、裏では高齢化した不登校経験者を追いたて、「賞味期限がある」という。年齢が上がったほうが社会復帰しにくくなるのに、不登校業界が歓迎するのは若い間だけだ。ここにも、「当事者=コドモ」という図式がある。



不登校を中心に語れば、「ひきこもり」はいつまでたっても陰に追いやられる。「社会参加できない(生きていけない)」という一貫した問題枠の中で、年齢に応じて課題のタイプが変わってゆくというフォーマット*2の中で、問題を捉える(位置づける)必要がある。不登校は、個人史の早い段階での枠組みにすぎない。


不登校を肯定する」という文脈のなかでは、あくまで「うまくいった事例」を中心に語ることになる。不登校を中心に語るかぎり、ひきこもりは「不登校を否定する素材」として扱われ、「存在してはならない」ような扱いを受ける。(「不登校経験者の○%がひきこもる」という客観的なデータが、まるで不登校への侮辱のように扱われる*3。)


「社会参加できない」「経済生活が送れない」ということを、議論のフォーマットにするべき。学校というのは、その一部の要素にすぎない。小学校時代の「不登校」経験者であれば、そういう時期を話題化する担い手であるというだけ。個別事例を論じる必要があるのは、そこから透けて見える一般的な状況や心的リアリティを論じるため。(たとえば、「学校には行かなかったが、社会生活を完全に失わずに済んだ」理由は何か*4、など。) 誰かを「代表」のように扱うことについては、政治的な便宜上の役割でしかないことに自覚的でなければならない。

    • たとえば留学先の大学で、自分だけが日本人であれば、自分が「日本人の代表(That's 日本人)」になってしまう。しかしその個人はべつに代表ではないし、日本人にはさまざまな人が居る。偶然その人が「代表」として振る舞う機会があっただけ。その留学先で「日本人」が差別されるなら戦う必要があるが、それは差別問題一般に反対しているのであって、「日本人を特権化せよ」というのではないし、その個人が主張主体として過剰に特権化される理由もない。



「当事者発言」は、手続きもなしに誰かを特権化するためにあるのではない*5。 「自分の置かれた状況について自分で考える」という、《考える構図》*6のこと。誰かが特権化されるためには、正当な手続きを踏む必要がある。▼不登校やひきこもりは、見下される理由にはならないが、優越の理由でもない。属性に基づいた集合は、議題共有等のための便宜上の区切りでしかない。属性の共有は、「一体化」を保障しない。


「学校に行かずにいること」は、学校を中心化しなくてすむ制度や発想の中では、「問題」ではない。学校に行かずとも、あるいはもっと言えば「社会参加」せずとも、生きていける道が高確率で保障されるのであれば、「学校」というフレームに固執する必要はなくなる。何度も繰り返すが、「不登校」というのは、問題を考えるときのフォーマットではなくて、「社会参加できず、生きていけない」というテーマのうちの、若い時代の枠組みにすぎない。





【放送終了後の追記】(7日22時すぎ)*7

聞いてくださった方はお分かりだと思いますが、想定したことはほとんど話せませんでした。(期待して聴取くださった方、すみませんでした)
放送終了まで聴いてみましたが、正直なところお二人の会話には、硬直した「左翼語り」と、自分語りの自意識しか感じられなかった*8
私と貴戸氏が「当事者」という言葉で共有できるのは、「自分のことを自分で考える」という、その構図だけではないかと感じています。
私は、自分のことを語ることが、可能な限り自分のナルシシズムから離れることを目指している。それは、単に自分の状況を問題にしないことではないし、だからといって自分のことを特権化することでもない。自分の置かれた状況を考察の場所にしつつ、どこまで純粋な構造をえぐり出せるか。要するに、どこまで事柄や現場に即した考察ができるか。――しかもその状況は、リアルタイムに動いている。

    • 【追記2】(8日20時45分ごろ)
      • 私はこの放送の収録時、神戸からスカイプ(ネット電話+ヘッドセット)で参加していました。収録前、スタッフの方にいろいろ調整いただいたのですが、どうしても「自分の声が0・3秒ぐらい遅れて自分の耳に聞こえてしまう」のを改善できず、集録中もずっとその状態で臨んでいました。▼さきほどたまたまTV番組『世界一受けたい授業』を観ていたら、まさにその現象についての説明が! 「ヘッドフォンで、自分の声が0・3秒遅れて聞こえる状態」では、話したり歌ったりがほとんどできないとのこと*9。 ▼言い訳になってしまいますが、思い通りに話せなかったのは、そういう事情もありました。




*1:《学校》という制度内で苦痛が始まることが多い。社会生活や経済生活の破綻そのものは、就労以降に初めて起こることもある。(それぞれのケースで、苦痛や逸脱の内実は異なる。)

*2:基本となる考え方の枠組み

*3:信じがたいことだが、業界の事実だ

*4:年齢、フリースクール、地域共同体、親の豊かな資金、など

*5:逆にいうと手続き論は、「誰をどのように特権化するか」という話になると思う。

*6:ガタリらの「制度論」では、その考える構図自体が動態化されている。

*7:スタッフ・関係者の皆さん、ありがとうございました。

*8:このことは、機会があれば議論を試みたいと思います。

*9:実験した安達祐実西城秀樹堺正章の各氏が、まったく歌えず。