カテゴリーと逸脱

女性や性的マイノリティであることは「改善されるべき逸脱」ではないので、ひきこもりや発達障害と一緒にすることはできない。しかし、「あるべきとされる姿(制度)からの逸脱」の問題として、次のような点を指摘できる。


ある逸脱の属性を名指して中心化したとき*1、多数派や理念型から「典型例」が標榜される。するといつの間にか政策や抵抗運動がその「典型例」を中心に組織され、名前の付けられない個別的な苦痛や逸脱は置いてきぼりになる。


自分のことを発達障害ではないかと疑っているある女性は*2、複数の医師から「グレーゾーン」等と言われ、診断名がつかないらしい。しかし本人いわく、「名前はつかなくても、現に困っている」。 ▼彼女の場合、むしろ正式な診断名をつけてもらえば社会保障等の恩恵を得られるのだが、診断カテゴリーを得られない(中心的な逸脱を構成していない)ために、制度的対応の配慮を受けられない。ここでは、「まっとうな人間になる」ことの難しさに似て、「まっとうな患者になる」ことの難しさがある。(支援を受けるために、「正常な逸脱」に向けて矯正されるわけにもいかない。)*3


政策や議論が成熟するためには、「ひきこもり」等の属性カテゴリーが必要になる。しかし今度はそのカテゴリーこそが「制度」になり、各人は自分の苦しみがそのプロトタイプから逸脱してはいないか(重症さが足りているかどうか)、悩まされることになる。悩みは、「すき間」的に成立しているし、それにあわせて《動機づけ》も、すき間的に成立するように思う。そういう話を、「診断名」等の制度的議論は等閑視するのだ。


本当に必要なのは、各人が自分の苦しみに自分で取り組むことであり、処遇の制度やカテゴリーは、各人の取り組みが便宜的に利用するためにある。各人の悩みを置き去りにしてカテゴリーが勝手に存在するのではない。
社会運動においては、カテゴリー確保のイデオロギーが優先的に存在してしまい、各人の苦しみのディテールが無視される傾向を感じる。



*1:「女性」「ひきこもり」「発達障害」「摂食障害」「アルコール依存」etc.

*2:今回の私のエントリーは、この女性から多大な示唆を受けた。

*3:このブログでは繰り返し論じていることだが、不登校やひきこもりは、「病気ではない」がゆえに、どんなに深刻でも制度的処遇の対象にならない。また、ひきこもりそのものに限ってみても、「その程度ではひきこもりとは呼べない」など、「本当の支援対象」である「本当のひきこもり」を探す葛藤が始まる(「偽ヒキ」問題)。