「精神医学が臨床的に有害というのはよく分からない話」(井出さん)

 上山さんの今回のエントリで最も不思議に思うのは、援助の重要な一端を担い、また、臨床的にも制度的にも必要とされている精神医学を「臨床的に有害」と述べている不思議さである。実際に精神医学は臨床的に有効である。また、社会の中で必要とされている。

制度的に整備された社会学や精神医学を単に否定しているのではなく、それへのベタな信奉の弊害を問題化しています。 井出さんの説明では、まるで私が「反精神医学 Antipsychiatry」を標榜しているかのようです(参照)。

 hotsumaさんの書かれていることは上山さんが批判対象である精神医学・精神科医を戯画化しているというところが一番重要だと思われる。確かに、精神科医が戯画化されているし、精神医学・精神科医の知識も不足している気がする。

現状についても、歴史についても、「精神医学・精神科医の知識」は、つねに吸収したいと思っています。ただし井出さんにあっては、「精神医学・精神科医の知識」として、現状支配的なディシプリンしか視野に入っていません。つまり、精神医学自体が政治的葛藤の場であるというモチーフが欠けています。それは、単に学的な課題ではなく、臨床的なモチーフです。

 批判が来ることを想定しながらも、わざわざ、精神医学がひきこもりに貢献出来ることを強調して、「ひきこもり」のサポートを率先して行おうというのは、「ひきこもり」を援助しようという意志と問題意識を持っているからである。そして、精神科医や科研の参加者という職務上の制約を十分に考えた上で、自身のできることを最大限行おうとしているように思えるのである。こういう行動は「居直り」とは言わないように思われる。

与えられた状況を最大限に活かす、そうしたメタな問題意識や取り組みのあり方をこそ、私は主題化しています。メタな問題意識を持つとは、単に超然と状況否定することではありません。 むしろ私は、「条件」の一つとしての「主体の事情」を、井出さんが黙殺していることを問題にしています。 ひきこもる本人だけでなく、支援者や研究者の主体事情も、環境要因のひとつです。

 上山さんは精神科医(エントリではhotsumaさんに対して)「取り組みのプロセスをそれ自体として主題化すること」が欠けているという批判をしているのだが、単に精神医学・精神科医についてあまり知らないだけなのでは無かろうか。精神医学の論文を読んでいて、「取り組みのプロセスをそれ自体として主題化する」ものには時々出会うことがある。

具体的な文献を挙げてください。 当ブログで繰り返し申し上げている通り、私はフランスの精神医療運動である「制度を使った精神療法psychothérapie institutionnelle)」を深く参照しており、「自分のような話をしている精神科医はいない」と言っているのではありません。 そもそもここでは、DSMに典型的な「カテゴリー化された処理」の話をしています。 ▼こうしたお返事をされている時点で、「プロセス」という言葉で何が問題になっているのか、とても理解されているとは思えません。 単に「観察対象」としてのプロセスではなく、支援や研究に携わる側自体の主体構成の問題でもあります。

 広汎性発達障害の概念の導入によって「ひきこもり」の周辺は大きく変わる。支援面で言うと、支援側に広汎性発達障害についての知識が広まることによって、不適切な援助をしているケースに対しては適切な支援を行える可能性が出てきた。この点では広汎性発達障害の知識を広めることには非常に意義がある。一方で、情報が広がる際には良くあることだが、情報が正確に伝わらないことがしばしば起きており、過診断・不適切な援助が部分的ではあるが実際に起こっている。現在はこの両方の情報を広めていく必要があるのである。上山さんのエントリでは、診断名を得て安堵感を持つという話と理解されているようだが、そのような意図でなされている話ではないし、臨床的に必要とされている議論なのである。

鑑別診断の権限を独占する医師の皆さん方において、発達障害をどう考えるのか、意見が対立しています。 20年で2000例以上のひきこもり事例を診たという斎藤環は、「ひきこもりの中に発達障害の人はほとんど見たことがない」と語っていますし(参照*1、生物学的な問題部位も特定されていません。
実際の診断や生化学的研究がどうであるのかという話と、政策を動かすのに何が必要なのかという話は分ける必要があるし、それらが診断される各人にとってどう機能するのかという話も、また切り分ける必要があります。 医師や生化学的研究者ではない「社会学者」の井出さんは、各国データなどを比較検討しつつ、発達障害カテゴリーの診断事例を結果として追認しているようですが、まず先に政治的・現場的な目的があって、そのために「既成事実としての診断結果」を追認するだけでは、診断プロセスやカテゴリー設定自体への批判的研究はあり得なくなってしまいます。
また、井出さんの議論においては、障害枠が広く導入されたとしても対応できない事例については、政策対応以上の検討が為されていません。これでは、カテゴリーに当てはまらないケースの取り組みは放置されたままであり、既存の支援方法や各種ディシプリンへの順応が勧められているだけです*2

 ひきこもり経験があるという人に対して、色々とご苦労をされてきたんですねと接する社会と、障害をお持ちなんですねと接する社会では大きな違いがある。当然、そこに立たされた当事者の気持ちも大きく違ってくる。ひきこもりと人格障害の話は単に施策の問題だけには留まらず、当事者にとっても大きな問題になってくるのである。

こうした問題意識は、井出さんがひきこもり研究に取り組む以前から話題にしています(参照1)(参照2)。 「役割理論」という斎藤環の指摘を取り上げたのも同じ文脈ですし、これはむしろ、当ブログのメイン・モチーフのひとつです(参照)。

 この意味では「ひきこもり」と「人格障害」に関しての議論には「中心的には施策との関係においてしか意味を持たない」というコメントは現状に対して大きく外れたものだと思えるのである。

私は、カテゴリー化そのものを話題にしたのであって、人格障害のみを取り上げたのではありません。カテゴリーを設定することは、医療・福祉インフラとの関係を含む施策の恩恵と大きくつながり、社会的想像界(みんなの思い込み)にも影響する――ずっと続けてきた話です。
井出さんは、発達障害というカテゴリーを追認した上で役割理論的な話をしていますが、私はそもそも、発達障害という枠組み自体を再検討するべきだと考えています。 「現場としてはそれしかない」という動きに取り組む必要はあっても、原理的な検討を放棄していい理由にはなりません。――これは、社会的な位置づけ論を忘れるどころか、さらに徹底して問うことです。



「社会化」=「道具化」?

井出さんにおいては、「ひきこもりの位置づけを変える」「政策を動かす」というマクロな課題がまず設定されており、臨床研究等がその道具的な地位に追いやられているのですが、これでは本末転倒です。 ひきこもりに関する言説活動も、ご自分の事業案の「道具」と見なせる範囲でのみ評価されている(「問題の社会的構築」云々)。
これは、井出さんの取り組みそのものにおける、原理的な「自他の道具化」です。 井出さんは、みずからをプロジェクトの道具と化すことでご自分を社会化し、主体のマネジメントを成り立たせている。同じことを、ほかの支援者・論者・あるいは引きこもる本人に、要求していないかどうか。
制度順応に苦しむ大学院生として、また就職機会の面からも、支配的ディシプリンのみに依拠する「自己道具化」の姿勢は仕方ないのかもしれませんが、それは研究者側の事情であって、ひきこもりそのものの事情ではありません。 井出さんにおいては、「道具化=役割化」というご自身の傾向が、ひきこもり論の傾向を決めています。役割化の事情や内実を問うより前に、端的に役割化に向かっている。そのことにおいて遂行できる事業があるのは確かですが、置き去りにする事情への検討も必要です。▼発達障害人格障害についてのデータはこれからも参照させていただきますし、政策レベルでの課題検討が重要であるのはもちろんですが、既存ディシプリンや役割への直接的順応(道具化)は、個人が社会化されるときの「スタイルのひとつ」です。そうした理解も含めた上で、「個人の社会化」のロジックと選択肢について、検討する必要があります。

    • これはもちろん、私にとってもまったく他人事ではない。既存ディシプリンに順応しなければ職業上の所属を作れないこと、つまり支援者側の社会順応の事情が支援ロジックを決めてしまうというジレンマ。支援者や研究者自身が、みずからの事情において制度分析を必要としている。単に支援者や研究者を責めればいいのではなく、支援や研究の既存制度自身が分析され、制度改編されなければならない。






*1:著書『思春期ポストモダン―成熟はいかにして可能か (幻冬舎新書)』では、「発達障害という診断の罪深さ」として、一節が割かれている(p.20〜)。

*2:既存ディシプリンへのアレルギーには、政治的に正当化されるべき要因もあるかもしれません。その場合には、違和感の否認こそが現実逃避になります。▼私はむしろ、アレルギー的違和感を交渉の本質的要素にしようとしています。これは「ワガママ是認」ではなく、徹底した「政治化」であり、弱者としての無条件の特権性も失われます(だからこそ、本人サイドからも拒絶され得る)。