“専門性”の踏襲と、分析の維持

少し時間が経ってしまいましたが、先日の「カテゴリー化」に頂いたレスポンスについて。

私が問題にしていたのは、既存の専門性をベタに信じ込むことのまずさです。とりわけそれは、「知的な」まずさというよりも、各主体が社会化されるときの、臨床上のまずさにあたる。 ここでは、専門性を主張するお二人の主体事情も問われます。専門性への没頭においてみずからの心理的・経済的マネジメントをやりくりしている人が、その私的事情をパブリックに押し付けていないかどうか。そのような押し付けが集団となって専門職の共同体を形作り、圧力団体のように機能していないかどうか。ひきこもりは、むしろそのような制度順応の事情をこそ問い直すモチーフだと思います。
個別ジャンルについて知る努力をしつつも、専門性の位置づけを分析的に検討すること。それは、新しい専門性を創ることかもしれませんが、それよりも私は、専門知とのあいだで常に批評的な緊張を保つこと、関係に巻き込まれた一個人として、当事者的な分析につねに立ち返ること*1、その分析の場所の維持*2をこそ強調しています。 社会的にニーズがあり、制度として確立された個別の専門性を、単に否定したわけではありません。個別の専門性をベタに信奉することのまずさであって、ジャンル自体を廃絶しろという話ではない*3
――ところがそれをお二人は、専門性の「戯画化」と理解されたようです(参照)。 メタ的に検討しようとする私の問題意識自体が拒絶され、ご自分たちの専門性への信奉が、あらためて防衛的に強化されている印象です。私のような疑問をさしはさむのは、逆にそれ自体が「専門性への防衛にすぎない」と。

    • 「上山さんのエントリでは精神科医は冷血人間として捉えられている」「データを積み重ねるスタイルは冷たい印象を与えるのかもしれません」云々(参照)。 しかしこれでは、専門性に耽溺するナルシシズムでしかありません。▼ミクロな分析の政治性を嫌う人は、むしろ端的なアリバイとしての「専門的データ」を欲しがります(親の会や講演会でも喜ばれます)。 剥き出しのデータは、もとからある価値観を補強するためにも用いられる。 私はデータを常に必要としていますが、それはあくまで「分析の素材として」です。

乱立する専門性や学派のどれを選ぶかは、「支配的であるかどうか」or「出会いの偶然」でしかなく、それぞれの学派は「自分こそ優位である」ことのアリバイを説明しますが、その説明自体が、ベタな順応主義でしかない。 ▼ディシプリンへの順応において、みずからの権威性をメタに確保すること。 “専門書” は、それがディシプリンそのものを問いに付しているのでない限り、支配的な情報処理を踏襲したルーチンワーク*4にすぎません。――支配的なスタイルであるかぎり、文献は参照され続けます。しかしその膨大な羅列は、それ自体が防衛的振る舞いでもあり得ます。
ひきこもりという問題に、どのように関与すればよいのか。その「手続き」の部分で試行錯誤が必要なときに、すでに決められた「専門性=手続き」を踏襲してみせるだけのそぶりに、ベタに収まるわけにはいきません。
以下、何が問題になっているのかを提示するために、もう少し細かく説明してみます。

    • 分析のモチーフについては、「制度を使った精神療法psychothérapie institutionnelle)」、とりわけ三脇康生の仕事を参照すべきですが、それについては今後あらためて取り上げてみます。▼同療法については、先日刊行された斎藤環思春期ポストモダン』末尾で、「制度改編派精神療法*5として肯定的に触れられていますが(p.225〜)、そこでの説明にはいくつか疑問があります。




*1:私が「論点化」と呼ぶのはこうした議論です。 ガタリらの「制度を使った精神療法」であれば、自己分析や「制度分析」と呼ぶでしょう。

*2:目に見えぬ、場所ならぬ場所。「非-場所」としての「アトポスatopos」(参照)。 この「非-場所」の発想は、ある座談会での松嶋健氏の指摘より。 ▼私の分析労働への固執は、まさに「場所」に閉じることへのアレルギー的拒絶にあたる。これは、不登校・ひきこもりを原理的に考えるにあたってきわめて重要な臨床的契機だ。学的専門性に閉じる者には、この「アトポスatopos」の契機が気づかれていない。

*3:分析なきベタな「反精神医学 Antipsychiatry」には、説得力を感じていません。

*4:哲学書や専門書であれば、そのルーチンワークを逃れているわけではない。

*5:psychothérapie institutionnelle》を示す、「制度を使った精神療法」「制度改編派精神療法」という訳語の試行錯誤については、それぞれのリンク先をご参照ください。