【参照】: 反精神医学(Antipsychiatry)に関連して

ロナルド・D・レインひき裂かれた自己』についての、中井久夫の解説より(『精神医学の名著50』p.277)。 強調は引用者。

 精神科患者は、ともすれば、忘れられがちな存在である。他から見れば忘れたい存在であり、社会経済的には手抜きにされやすい存在である。私たちが油断すれば、精神医療は必ず空洞化する。なるほど、生物学的精神医学は隆盛に向かうであろう。しかし、生物学的精神医学が主流となった時に精神科医を志す医師のタイプは、変わってくるであろう。患者は、生物学的に治療されて、治ればよし、治らなければ「それはお気の毒」となるかもしれない。あるいは、精神医療は、心理士やナースや作業療法士の手に移り、精神科医は、診断し、処方し、診断書を書き、保険会社員に「指導」される存在として片隅に追いやられるかもしれない。この傾向は、すでに世界各地で見られていると思う。しかし、天の下に新しいものはそれほどない。それは、19世紀末精神医療の、より洗練された繰り返しである。そうなれば50年後、100年後に新しいレインの出現が待たれる事態となるかもしれない。レインが容易に成仏しないのはそのためかもしれない。

ひきこもりは、目に見えない存在であることによって社会的に放置されると同時に、苦しみの事情がよくわからないことによって、本来ふさわしくないような扱い方をされてしまう。 社会的放置を改善しようとすれば、「とにかく診断カテゴリーが必要だ」という話になりますが、苦痛の細かい事情は、政策や現場の都合でかえりみられない可能性がある。
細かい事情に照準することは、ひきこもりの「心理学化」ではなく、「ミクロな政治化」にあたります。それは、臨床場面そのものの論点化・交渉化であり、私が「制度を使った精神療法」に注目するのは、まさにこの点においてです*1。 
【追記:この項目、エントリー後にやや書き換えました。】




*1:三脇康生の記念碑的労作は、「精神医療の再政治化のために」と題されている(『精神の管理社会をどう超えるか?―制度論的精神療法の現場から』p.131〜)。