分析の前提となる《制度》という概念について

「実存のもんだいと制度の問題は分けなければならない」とよく言われる(宮台真司)。
私はその上で、「個人の主体化のありかた」が硬直していたり不自由だったりすることを問題化したくて、《制度》という言葉にこだわっている。そういう文脈として、以下の引用を記しておく(強調は引用者)。



三脇康生 「日本の現代美術批評とアンチ・オイディプス*1より

    • 「絵画とは institution に関する事柄である。制度といってもいいのだが、このことばには具体的な、あるいは実体的なニュアンスがある。しかし、社会学の用語としての institution が指すのは、単に具体的、実体的なものだけに限られるのではない。それは、特定の社会の成員の行動のみならず、思考様式が感情のパターンまでをも有形無形に規制する社会的なシステムである。たとえば習慣がそうであり、未開社会のトーテミズムや神話もそうである。」(『宮川淳 著作集2』)

 イメージという中性の空間に入ることではなく、絵を描くこと、あるいは以下のように絵を見ることは institutionalisation(制度化)として成立するのである。

    • 「論理的にいって、問題は作品と批評といった伝統的な区分を超越するだろう。なぜなら、それは絵を見るというわれわれの制度そのものの問い直しをはらんでいるからである。そして、そのことによって、この問題はまた〈美術〉を作品ないし作家の側においてではなく、全体的な状況――ひとつの時代の〈見る〉制度としてとらえることを可能にし、またなによりも必然とするだろう。そしてこの〈見る〉制度にはたとえば批評やジャーナリズムも含まれる。いま必要とされているのはそのようなメタ・クリティックであるように思われる。」(『宮川淳 著作集2』)

 この場合のメタ・クリティックとは批評するものを構成しながら批評するという離れ業を必要とする。日本の美術批評に導入されるべき言葉はスキゾではなく、見ることと見せられることの共犯関係の分析(アナリーズ)ではなかったのか。 (p.256-7)

 宮川は中性的な消滅不可能性の中に入ろうとする書き方と、その周りに存在する制度への配慮を忘れない書き方の両方をしていたのだ。前者が『意味の論理学』の表面の概念や引用性に近づくとすれば、後者は制度分析からスキゾ分析へと至る流れの中にある分析行為の強調に近づき得るものであっただろう*2。 (p.257)


 従ってむしろ『感覚の論理』から引かれるとすれば「描かれる前の絵画」、「紋切り型」への闘いが必要であると書かれている次のような部分が引かれて、80年代の作家に伝えられるべきだったのではないか。

    • 「画家が純白の面を前にしていると考えるのは誤りである。(略) 彼が頭の中や自分の周りにもっているものはすべて、彼がその仕事を始める前からすでに、多少は潜在的に、そして多少は顕在的に、カンバスの中に存在している。したがって画家の任務は、真っ白な画面を埋めることではなく、むしろ空にし、取り除き、拭い去ることにある。(略) 明確にされるべき点、それは、画家の仕事が始まる前に、カンバスの上にすでに存在しているこれらのあらゆる「所与」である。そしてそれらの所与の中で、どれが妨害となり、どれが助けとなり、またさらにどれが予備作業の結果であるのか。」(ドゥルーズ感覚の論理―画家フランシス・ベーコン論』 p.81)*3



制度は、単に縛るものではなくて、何かが意識されずともできるようになったとき、そこに成立しているものでもある。これは、「意識すればするほどできなくなってゆく」という《再帰性》(参照)にとって、決定的な意味を持つ。

岡崎乾二郎 例えば、逆上がりができる奴にとっては、逆上がりなんてやってないに等しいんだ。それが自動化されちゃってるから、何も感じないに等しいんだ。価値ってのは、自分にとって水準を越えた、という問題で、自分は変わった、という事なんだよね。それで逆上がりが出来た瞬間ていうのは、それまで悩んであれこれ考えてた事が、消えちゃってるんだね。作品についても同じで、他人の作品をあれこれ分析することはできるし、そこで上手くやる方法なんかも解ってきたりするけど、その部分では面白くないわけ。ある日それが急に、アレッて感じで出来ちゃう。飛躍が起こっちゃうんだね。だから、分析や理論がいらないって言っているんじゃないんだよ。それが飛躍までの用意をしたりするわけだからね。
藤井雅美 しかも作品なんかの場合は、その飛躍を他者が見れるかどうか、の契機が加わる。
岡崎乾二郎 そういうこと。だから作る前にあれこれ悩んだり、理論を立てたりするのは、他者を事前に抱え込むという事で、時に現実の他者より先に、他者の生を生きちゃおうとする。体験を先取りする。
藤井雅美 にもかかわらず成功の保証はない。 (1984年3月1日発行『現代美術の最前線』p.68)

 ここで岡崎が言うように作品のプロセスとリザルト*4に飛躍が入り込むのは致し方がない。しかしそれでも、分析や理論は必要だといっている。このような岡崎の発言部分に、ドゥルーズ=ガタリの analyse 概念が繋がるべきだったのではないだろうか。 「スキゾ時代」が持ち上げられるのでは全く意味はなく、スキゾ分析について考えられるべきではなかっただろうか。 (三脇康生 「日本の現代美術批評とアンチ・オイディプス」 p.261)



80年代に紹介されたのとはぜんぜん違う形で、ドゥルーズ=ガタリらの《分析》概念が気になりだしている。

 ドゥルーズ=ガタリアンチオイディプスで作り出した schizoanalyse(スキゾ分析、分裂者分析) の analyse(分析) の部分はほとんど無視されていたのだ。分析など精神医学に関する行為であって、美術ではその前についた「バラバラ」という意味を表すスキゾだけで良いと考えられていた可能性がある。バラバラの各人が自己肯定することが一気に許可された雰囲気が醸し出されていた部分も大きかった。 (p.255)

私はまさにそのように読み取って、「読む価値がない」と考えていたのだった。自分という主体をうまく組織できずに苦しんでいる者にとって、単なるスキゾ称揚は破滅的な現状肯定でしかない。「自分はリベラルなんだ」という自意識に酔っ払うこと。それだけではくだらなすぎる。





*1:クアトロガトス(第2号)』 p.255〜263

*2:ここに付した注で、三脇は「この institution こそドゥルーズ=ガタリが共通の出発点にした概念だともいってよい」としている。▼フランス現代思想に興味を持ちつつ、ガタリらの議論がさっぱりわからなかった私は、このあたりを現在の興味の起点にしている。

*3:【追記】: こちらのイベントでは、浅田彰氏は上記ドゥルーズのくだりを想起させるような発言を行なっている。

*4:結果