「分析的な当事者論」としての制度論

「バラバラなあり方を単に肯定する」のではダメだ。
すでに生きてしまっているバラバラさは、単に自由なのではなく、常にすでに一定の制度を生きてしまっている。それは、生きられた制度についての当事者的分析であり、また、一定の権力を生きてしまっていることへの反省的な自己分析でもある。その意味で、私はこの三脇の議論を《当事者論》として読んでいる。
単なる素朴な弱者肯定ではなく――そのような弱者肯定は、実は陳腐な制度的目線を再生産している*1――、弱者本人も、その弱者を見つめる目線も、まず自らの巻き込まれた制度的振る舞いを自分で(当事者として)分析してみること。
ここで《当事者》は、単に弱者のことではない。社会関係の中で生きる人間すべてのことだ。(ひきこもっている人間すら、すでに視線や人間関係の《制度》を生きている。)