「自分を研究する」という動機づけの構造と、公正な吟味

「自分の問題を、自分の言葉で語る」というチャレンジは、社会的な逸脱を経験したことのない人にも開かれている。(むしろ社会的な力を持っている人たちの自己分析こそ、有益であるかもしれない。そのような「当事者研究」を為す人が増えれば増えるほど、この社会は生きやすくなるだろう*1。) ▼ある経験をした人びとを「当事者」として、あるいは「研究対象」として囲い込む特権化は、特定の経験に本人たちを縛り付けることにもなりかねない。

 私は、何でわざわざ「研究」って言うんだろう、当事者の「エッセイ」や「手記」じゃどうしていけないんだろう? という疑問に、なかなか答を出せないままでいた。
 それが、べてるの家の人たちの「研究」の様子を見て、あっと思った。

 ――だって楽しいじゃん、と言うのだ。
 それは、大きな発見だった。 (『コドモであり続けるためのスキル (よりみちパン!セ)』p.202)

「研究される側」の自己は、あくまで公正な吟味の対象であり、絶対的に肯定されるだけの固定的な対象ではない。それは考察の対象としていったんは(「不登校」等のフレームにおいて)存在を肯定されるが、吟味の結果、その対象となった自己に対して、単なる肯定以外の言葉が向かうかも知れない。


「自分で自分を研究する」という構造は、自分がどうしても固執してしまう特権的なリアリティ*2に動機づけられている。それは、動機づけの構造そのものであって、この構造を失えば、動機づけ自体が失われる*3。――とはいえこの構造は、再生産され続ける《出発点》であり、交渉行為の原点として、あるいは心的リアリティの尊重構造として、反復されるにすぎない。そこでえぐり出された「自分のニーズ」は、他者との交渉関係の中で、断念させられるかもしれない。





*1:これは、「みんながバカになっても暮らせる社会を」と語る東浩紀宮台真司の方針とは真逆といえる。

*2:「私の一番大切な核の部分」(p.188)

*3:多くのひきこもり支援者は、この部分を無視しすぎる。貴戸のデビュー作『不登校は終わらない―「選択」の物語から“当事者”の語りへ』の功績の一端は、まさに「本人の心的リアリティ」固執し抜いたことにある。