「Nさん問題」

「擁護される側の自分」と、「その自分を対象化する自分」との関係は、貴戸にあっては、すでに「Nさん問題」として論点化していた(参照)。
貴戸のデビュー作『不登校は終わらない―「選択」の物語から“当事者”の語りへ』は、不登校経験者へのインタビュー取材によって成り立っているが、取材対象者として登場する「Nさん」*1は、各所で公表された貴戸の経歴*2と読み合わせれば、貴戸自身であることが明らかだ。つまり彼女は、学術論文の執筆者として、自分自身を「取材対象」に繰り込み、かつその事実を明示しないまま、論文を提出・公刊した。一般的な論文作法からすれば明らかな逸脱であるこの振る舞いが、「当事者研究」の方法的精髄の主張であるならば、それ自体を方法論として主題化し、論じる必要があるだろう*3
この件について本人に問い合わせたところ、貴戸は当時「これから時間をかけて考えてゆきたい」と話していた*4。それからすでに2年が経つが、「論じる側と論じられる側の同一人物における同居」という原理的な問題構造については、貴戸はいまだ明示的には論じていない。

 じゃあ「当事者研究」って何だろう?
 問題を抱えた人をめぐっては、通常「研究する」のは「専門家」の役割で、「当事者」は「研究される」側だ。でも「当事者研究」では、私のことを私が知るために、私が研究するのだ。 (『コドモであり続けるためのスキル (よりみちパン!セ)』p.198)

ここでは、「研究される側」の自分を100%肯定し、「研究する側」の自分をも100%肯定することになる。これでは、研究構造の維持自体が、「研究する側・される側」双方のナルシシズム(去勢否認)を温存してしまう。





*1:同書p.170-175

*2:不登校、選んだわけじゃないんだぜ! (よりみちパン!セ)』など

*3:たとえば精神分析では、「自己分析」の問題系として論じられている。

*4:【参照】:『こころの科学 (2005年 9月号) 123号 ひきこもり』掲載の拙稿、「《当事者の語り》をめぐって」、(注2)