2007-07-20から1日間の記事一覧
《当事者》とは、そもそもが交渉主体の問題系だ。単なる社会適応も、単なる自己の特権化も、交渉主体として未熟すぎる。 「子供であり続けるためのスキル」というタイトルを知ったとき、正直私は、困惑を隠せなかった。《当事者》というフレームにこだわると…
「自分たちは、特権的に正しいのだ」。これこそが、内ゲバや不当な暴力の温床となる幼児性だ。 そこで重要なのは、「正しさ」を掲げるかどうか、ではなくて、自分たちの「正しさ」に対して違う意見を差し向けてくる人びとを、どう扱うか、ということじゃない…
《当事者》というポジションが、あくまで関係性においてのみ成り立つものであることについては、貴戸自身が次のように語っている(強調は引用者)。 しかしそれは、当事者というものを「何らかの本質や実態を共有する集合としてではなく、あくまでも行為者相…
不適応の記憶は、まずは譲ることのできない倫理的な固執として、肯定される。しかしそれは、被支援者と支援者(研究者)が、持ちつ持たれつの選民的ナルシシズムの構図を安定させたり、それを押し付けたりするためではない。不適応者の置かれた状態(「その…
そこまで論じた上で、次の件を再引用しておく。これは今後の課題だ。 自分自身は、安全な場所に立って、犠牲者たちに同情し、彼らに理想を投影することの欺瞞性が、議論を弛緩しきったものに見せていたのです。言語行為論の用語を使えば、これは執行的矛盾の…
これは具体的には、法律行為ができるか否か、あるいはその発言が論文等の執筆主体として承認され得るか(社会的な手続きに乗り得るか)で問われ得る。 たとえば未成年者や精神障害者は、単独では法律行為を行なえない(参照:「制限行為能力者」)。前記「当…
その断念は、「私の一番大切な核の部分」(p.188)について、無条件に《存在》として肯定されることをあきらめることで、過去の自分をも、対等な交渉関係に巻き込むことだ*1。 社会参加できない子供時代の自分(私の一番大切な核の部分)を《存在》として絶…
【貴戸理恵 『コドモであり続けるためのスキル』について 1】からの続き