「自分で自分を研究する」の、開放的連携

《当事者》というポジションが、あくまで関係性においてのみ成り立つものであることについては、貴戸自身が次のように語っている(強調は引用者)。

 しかしそれは、当事者というものを「何らかの本質や実態を共有する集合としてではなく、あくまでも行為者相互の関係におけるひとつの位置」と考えているためです。「確固とした当事者が存在する」というのではなく、その人が当事者であるかどうかは、どのような状況のもとで、誰と向き合うかによって、その都度はかられるものと捉えています。

「自分の問題を、自分で研究する」という、分析的な取り組み同士が連携すること。

 当事者研究の向こうに見えてくるのは、「完治」や「解消」ではなく、「人とのつながりの回復」なのだ。だから、キャッチフレーズは、「自分自身で、共に」。 (『コドモであり続けるためのスキル (よりみちパン!セ)』p.200)

各人が自分の状況を分析する、その分析プロセスの動的な《共有》が、その都度そのつどの「仲間」として生きられる*1
いっぽう、特定の《当事者性》が特権化されるだけの連帯では、「自分たちは○○なんだ」という当事者ナルシシズム(自己分析なき特権意識)しか共有されていない。





*1:三脇康生らの「制度改編主義」も、そうした態度だろう。