「おとな」――静止画像から活動形へ

「自分たちは、特権的に正しいのだ」。これこそが、内ゲバや不当な暴力の温床となる幼児性だ。

 そこで重要なのは、「正しさ」を掲げるかどうか、ではなくて、自分たちの「正しさ」に対して違う意見を差し向けてくる人びとを、どう扱うか、ということじゃないかな。
 「よい」「正しい」を目指しているからといって、担い手の人間が特別に「いい人」「正しい人」であるわけじゃない。引くに引けないときもあるし、間違うことだってある。それは人としてあまりにも当然のこと。だから、少なくとも、自分たちとは異なる「正しさ」を持つ人びとを、排除したり痛めつけることのないように、気をつけていなければならないと思う。
 大切なのは、「いつも正しくある」ことではなくて、「時には正しくあり得ないかもしれない」ことを、知っていること、じゃないだろうか。 (『コドモであり続けるためのスキル (よりみちパン!セ)』p.213-4)

これはすでに、成熟を目指そうとする姿勢ではないだろうか。
貴戸は「コドモどうしがつながるために」というのだが(p.177)、私はむしろ、創意工夫に満ちた、動的な「大人」のつながりを目指しているように見える*1
大人であることは、「社会に適応できている」というような静止画像の問題ではなくて、「フェアであろうとする」という、活動形の問題だと思うのだ。





*1:「コドモであり続けるためのスキル」というタイトルを紹介すると、幾人かの人は「子供であり続けるのではなくて、《別の形で大人になる》ことが重要なんじゃないの」と指摘してくれた。