「コドモであり続ける」ではなく、「フェアであろうとする」ためのスキル

《当事者》とは、そもそもが交渉主体の問題系だ。単なる社会適応も、単なる自己の特権化も、交渉主体として未熟すぎる。
「子供であり続けるためのスキル」というタイトルを知ったとき、正直私は、困惑を隠せなかった。《当事者》というフレームにこだわるとき、最も懸念しなければならないのが、独りよがりの特権性の主張であり、その意味での幼児性だと思うからだ。弱者に味方する自分を絶対化し、闇雲な暴力をふるう左翼を「小児的」と形容することがあるが、現在の《当事者》周辺の事情には、自己分析もなしに噴き上がる幼児性を濃厚に感じる。
《当事者》とは、最初から「公正さ」を目指した用語であると考えれば*1、「自分の問題を自分の言葉で語る」という貴戸の呼びかけは、自分を特権化するコドモを目指すのではなく、むしろ過激なまでに成熟を、つまり「フェアであること」を目指す形でしかあり得ないはずだ。あるいはむしろ、「フェアであること」こそが、当事者的な欲望というべきだろう。そうでなければ、夜郎自大覇権主義になってしまう。【貴戸は、「わたしたちはもっと怒っていい」というのだが(参照)、アンフェアであることへの怒りは、「わたしたち」自身にも向かうべきだし、そうでなければ困る。】


「フェアであること」は、一定の権力なしには実現しない。逆にいえば、弱者として現れる当事者性は、じつは一定の仕方で《権威=権力》でもあるのだ。貴戸の議論は、(本書に限らず)このことにはまったく触れていない。
《コドモであり続ける》ためには、「絶対的弱者」と、それを保護する「絶対的擁護者」が必要だった。しかし《フェアであろうとする》ためには、別の考察が必要だ。貴戸の議論は、「フェアであろうとすること」の萌芽を含みつつ、いまだ「絶対的弱者」の段階にとどまっているように見える。


【了】




*1:法的にも政治的にも、《当事者》というのは、相手のある話だ。この世に一人しかいなければ、その人は《当事者》ではない。つまり、加害や被害を通して、関係の中での「不当な状態」を生きることができない。人間なき自然のなかに、《当事者》はいない。