そこまで論じた上で、次の件を再引用しておく。これは今後の課題だ。
自分自身は、安全な場所に立って、犠牲者たちに同情し、彼らに理想を投影することの欺瞞性が、議論を弛緩しきったものに見せていたのです。言語行為論の用語を使えば、これは執行的矛盾の一種と見なすことができるかもしれません。言い表された内容と、言表行為そのものの発話内効力(の含意)の間に、矛盾があったわけです。このように考えると、姜さんの発言にのみ、「アウラ」が宿っていた理由も容易に理解できます。 (大澤真幸が山之内靖に宛てた手紙、『再魔術化する世界―総力戦・“帝国”・グローバリゼーション』掲載)
当事者性のメカニズムが違うから、「コドモ扱い」されていないのは当然として、姜尚中の「当事者性」は、彼の語りに強度と説得力を与えている。この、いわば当事者性の主意主義的側面については、まだほとんど(理論的には)語られていないと思う。
たとえば貴戸は、次のように語っている(『コドモであり続けるためのスキル (よりみちパン!セ)』p.223、強調は引用者)。
「不登校」を否定するとか、肯定するとか以前に、それを抱えた私がここにいる、ということが重要だった。それを抱えた私は、いつもゆらゆらしていた。「不登校」なんてびりびりに切り裂いて床に叩き付けたい、と思いながら、そこに私の核みたいなものがぎゅっとつまっているような気がして、「これだけは」と持ち前のキツネ目をさらに吊り上げて守ってもきた。大げさに見えるかもしれないけれども、それが私の「ありよう」で、言葉で、これから不登校をしていくかもしれない次の世代の人びとに対する「落とし前」だった。
私は本稿で、不登校経験者の特権性を語る貴戸理恵に批判的な立場をとっているが、経験当事者本人のみが持つ主意的執念については、ないがしろに語るわけにはいかない。端的に言えば、「知的に興味があるから不登校を論じています」という人と、「自分が苦しんだから論じている」という人とは、言葉の組織原理が違う。
あるいは、斎藤環が指摘してくれたように*1、ある問題の当事者性とは、その執念の有無からさかのぼって同定されるべきかもしれない*2。経験者であっても、その経験をどうでもいいと思っている人も居るし、そういう人に当事者性を押し付けてはいけないと思う。何を焦点化して生きるかは、各人の自由だ。
執念のモチーフやスタイルは、人や時間で変わり得る。学者的言説の習得が、文体を「変えてしまう」こともあるだろう(しかし、主知的なだけで優れた論文は書けるものなのか?*4)。また、経験者だから高いレベルの議論ができる保証など全くない。(むしろ、経験当事者の行なう議論のほとんどは、単なる独りよがりだ。)
宮台真司は、「右翼/左翼」を「主意主義/主知主義」と整理しているが(参照)、この対比は、《当事者》という語り手のポジションを学者の言説と対比するためにも、非常に有益に思える(このことは、調査対象者たちの持つ「研究者」へのアレルギーとも関係している)。
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- 【参照:大屋雄裕「一人称特権と法的問題」】