「当事者研究」の構図は、開放系としてあるべき

不適応の記憶は、まずは譲ることのできない倫理的な固執として、肯定される。しかしそれは、被支援者と支援者(研究者)が、持ちつ持たれつの選民的ナルシシズムの構図を安定させたり、それを押し付けたりするためではない。不適応者の置かれた状態(「その後」を含め)を吟味し、その窮状を換骨奪胎するためだ。不適応の現実を、風通しの良い現実に創り変えること*1。 改善が進めば、差別化=特権化の構図にとどまる必要はない。本人も、一つの当事者性のフレームにとどまり続ける必要はない。多層的な存在として、他のフレームでの取り組みがあってしかるべきだ。


繰り返し肯定され、反復されるべきなのは、「自分の問題を、自分の言葉で考える」という、その研究の構図そのものだ。「研究する自分」と「研究される自分」とが、一定のテーマ(アイデンティティ)のもとに固定されるべきではない*2。容赦なき「分析の構図」そのものが肯定されるべきなのであって*3、構図の「両極」が単に静態的に居直るのではない。


「自分の問題を、自分の言葉で考える」という構図の反復は、研究される側の自分も、研究する側の自分も、さらにその両者を取り巻く環境をも変化させてゆく。研究の両極を静態的に固定することは、研究対象である「不適応者」を特権化し、もって「研究する側」をも特権化することになる。――これは、社会調査をする社会学者とともに、弱者支援に居直る左翼がつねに陥りがちな「正義の味方」的アリバイ作りであり、そこでは「擁護する側」である自分自身への、分析的・反省的な取り組みが見られない。つまりその支援者は、当事者意識を持たない。また逆に支援される側も、支援されるポジションに居直ることで、分析的な当事者意識を持っていない。【私はここで「当事者意識」を、「自己分析的な意識」とほぼ同義に使っている。社会学的には「当事者」であっても、自分で自分の心理や状況を分析的に語れない人については、「当事者意識がない」と見なしている。自己分析なき当事者意識は、自己を特権化する当事者ナルシシズムにすぎない。】
不適応者を「当事者」として支援する態度には、多かれ少なかれ、他者を特権化する構図がある。また、“当事者”とされた不適応者は、その特権化の構図に居直ることで、かろうじて社会に居場所を得ているところがある。(学問的な調査対象になった未開民族が、調査者の希望通りのあり方を再帰的に演じるケースを思い出す。)





*1:学校に行かないことが、風通しの良い形で肯定されてもいいだろう。そのためには、単なる価値観的肯定以外のインフラ整備が必要だ。セーフティネットの構築(参照)や、生涯にわたる職業訓練機会の拡充など。

*2:とはいえ、たとえば「不登校」というアイデンティティの固定と、そこでの活動や交流の履歴は、一定のコミュニティを形作る。これは絶対に等閑視してはならない要因だ。ここの部分でも、《当事者性》の議論は、「伝統」を含む右翼系の議論に通じる。▼宮台真司によれば、「伝統」とは、本人にそのつもりがなくとも生きられてしまう何かだ(参照)。 ラカン派の精神分析にいう《症候》という概念をも思い出す。

*3:この構図が成り立つためには、いったんは両極が固定されなければならない。