「内容面への保護」/「存在面への保護」

これは具体的には、法律行為ができるか否か、あるいはその発言が論文等の執筆主体として承認され得るか(社会的な手続きに乗り得るか)で問われ得る。 たとえば未成年者や精神障害者は、単独では法律行為を行なえない(参照:「制限行為能力者」)。前記「当事者研究」の引用部分で貴戸は、精神障害者の活動拠点である「べてるの家」を参照しているが(参照)、行為能力に法的な制限を持ち、それゆえ制度的にも保護され得る*1存在は、いわば言葉としての対等な権限を奪われる代わりに、存在としての肯定を得ている
「コドモであり続ける」ことを主張する貴戸は、瑕疵のない意思表示を行なう交渉権限を持っている(子供ではない)にもかかわらず、その発言内容に対して、制限行為能力者と同じ保護を求めているように見える。【内容面への保護と、存在面への保護とがショートしている。制限行為能力者として存在面を保護されれば、内容面は対等には扱われない。対等な権限者として内容面を対等に主張すれば、存在面の保護は受けられない。】
十全で対等な交渉能力と交渉権限(参照)を持つ貴戸が、その主張の内容面についてのみ、「不登校当事者だから特別に扱ってほしい」というのは、不当な特権主張にあたる。貴戸が政治的な主張者として対等な権限を要求するなら、発言内容はやはり対等に吟味される。


発言が「コドモとして」為されたものなら、主張者としては対等な扱いは受けない。――具体的な経験を挙げておく。「ひきこもりの経験者」として親の会などで発言を始めた私は、ある親の集まりにおいて、手招きをされつつ

  ボク、(こっちこっち)

などと呼びかけられた*2。すでに30歳を越えていた私は、「ひきこもりの当事者」としての発言を尊重されつつ(保護されつつ)、それはいわば政治的には、「コドモ扱い」でしかなかった。逆にいえば、コドモ扱いされることにおいて、ようやく私は権利を得ていた。
私が対等な扱いを希望するなら、発言内容についても、特権的な保護はあり得ない。ここで言っているのは、そういう話だ。弱者としての原典性を減じれば減じるほど、議論の相手としては対等と見なされることになる。





*1:参照:「日本の精神障害者と障害年金制度

*2:当時の私は丸坊主で、夏の暑い盛りにTシャツにジーンズという格好だったから、より幼く見えたのかもしれない。