誰が《公正さ》を判断するのか

7月21日、女性を中心とした不登校経験者(30歳前後以上)の場である『Soui』例会にお邪魔(参照)。貴戸理恵氏も来られていて、私の批判についてやや緊張感をもって議論を交わす。


貴戸氏からのレスポンスは以下の通り。(「上山に理解できたのはこういう意味だった」ということなので、ご本人の趣旨は違っている可能性がある。*1

  • 上山は「フェアであるべきだ」というが(参照)、その「フェアさ(公正さ、fairness)」は誰が判断するのか。誰が判断するかによって公正さの内容は変わってくる。▼《当事者》という概念は、「公正とされるもの」そのものに潜む非対称性への配慮を促してきたはずであり、「新たな公正性」を打ち立てることには警戒したほうがよい。
  • 《当事者》という概念は、スティグマ化されたアイデンティティを逆手にとって主体性を主張してゆくプロセスを含んでいる。私(貴戸)は、各々の位置性 positionality とそれをめぐる権力関係に自覚的だ。
  • あの本で、「コドモ」「おとな」が何を意味するかはたしかに曖昧。とりわけ、重要なはずのお金の問題に答えていない。



既存の型どおりの「フェアさ(fairness)」は公正でもなんでもなく*2、だからそれは創造的に検討され、制度改編に向かわなければならない。その意味では私と貴戸氏は立場が似ていると思うが、そもそも「fairness」自体を問題にしない、という貴戸氏の態度には、自分の属性(アイデンティティ)への硬直した居直りと、着地点の見えない覇権的な主張を感じる。
弱者としての《当事者》が、既存の制度との関係において正義実現のための脱法的な要求を持っているとして、しかしそれは「新しい形での fairness」を要求しているはず。そうでなければ、自分個人の要望に従って唯我独尊的に周囲を組み敷くことになってしまう。そういう個人同士がぶつかり合い、調停の法廷がなければ、争いに収拾がつかない。▼現状の法廷が不公正であることと、「それでも公正さは追求されるべきだ」ということは、分けて考えるべきだと思う。現実には、完全に公正な法廷なんてあり得ないが、だからといって公正さへの追求・追究をやめてしまえば、単にシニカルな理不尽さばかりになる*3



《当事者》の要求は、「オリジナルに正当」な形でも脱法的であり得るが、単に不当な形でも脱法的であり得る。

私は、光市母子殺害事件ご遺族・本村洋氏の脱法的殺意(参照)を支持する。本村氏の当事者的執念と、問いかけ的な節度ある意見表明は、現行制度のおかしさを白日の下に晒している。 【そもそも現行の刑事訴訟法では、被害者やご遺族は「当事者」ではない。刑事裁判の当事者は、被告人と検察官だ(参照)。】
その一方で、バランスを欠いた独善的な暴力を振りかざすだけの抗議主体がたくさんいることも事実。当事者的な執念が、節度と説得力を獲得することは本当に難しい。
当事者性の標榜が、積極的な主体性の確保をもたらすとしても、その言動が(理論等の)説得的基盤を持ち得ないならば、「当事者の言うとおり」にしていれば破滅しかない。【たとえば、資本家の横暴を攻撃する労働者は、自分が経営権を握ってもうまく経営できない。】  ▼いっぽうで、「理論はないから意思表示もしない」と言い出したら、そもそもほとんどの意思表示はダメになってしまい、既存制度と専門家主義のままになってしまう。徹底した意思表示がなければ、現状を理論的・制度的に整備し直そうとする動きも始まらない。 ★問題は、当事者的な執念の主体が、同時に言葉のプロにもなる必要があるということ。



一つの非対称の是正が、別の排他性や非対称を生む(独善の危険)

単なる形式的な公正さは、事実上のアンバランスを招く。たとえば、ひきこもり経験者の集まりを何の縛りもなくオープンに設定すれば、まちがいなく「異性愛の男性」ばかりの集まりになってしまう。そういう場所では、女性の意見表明はしにくい。そこで「女性限定」という縛りを設定することには意味があると思うが、それが最初から「異性愛の女性」による独善性や排他性でないかどうか。 【参照1】、【参照2
もちろん同じ理由によって、異性愛男性で占められることの多い「ひきこもり経験者の集まり」は、その独善性が疑われ得る。

    • 議論は今後も少しずつ考えていくしかない。▼貴戸氏からは、《公正さ》よりも《透明性》という言葉を提案された。《公正さ》のかなりの部分は、まずは《透明性》という言葉で代替できる*4。 このことは、公正さにとっての《公私の区別》という別の切り口を呼び込む。






*1:こういう形で掲載することについて、貴戸氏と『Soui』スタッフの了承を得た。記して感謝します。

*2:マルクス主義には、実定法の体系を「その時代の生産関係(下部構造)に規定された上部構造にすぎない」と批判する議論伝統がある。

*3:柄谷行人がいう統整的理念(参照)を思い出す。▼「統整的理念」は、自分の取り組みが破綻したことについて反省的に自己分析しない言い訳でもあり得ることに注意したい。

*4:再分配論は無理