孤立支援は政治・宗教など、生々しい思想の問題が避けられない

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支援にかかわる方々が、なんとかして関係を築こうとする――しかし最も難しい問題が、「ご本人による支援の拒絶」だという。

あるいは「居場所」が大事なのは確かでも、参加を続けるには、その場の関係がどういう発想で成り立っているか、そこが問われざるを得ない。

会話のきっかけを掴もうと、ご本人が興味を持ちそうなアニメを話題にしても、口先の雑談だけでは、生き延びる意思に結びつく根本的な動機付けにはならない。そして人間関係に絶望しているのだから、腫れ物に触るような対応だけでなく、双方向的な試行錯誤が要るはず。

一方的に「全面肯定」というわけにはいかない。なぜなら当事者どうしの集まりでは、お互いにその「全面肯定」を強いられることになるから。人の集まりでは、お互いに全面肯定など続けられない。必ずトラブルになるし、そもそもお互いに、興味を持続させることは難しい。

意識・身体・関係に難を抱えた状態なので、そういう全部をひっくるめた自己管理のありように取り組まざるを得ない。うまく行ってないのだから、訓練が必要なのも当然。しかしでは、どういう方向性でやるのか? そのスタイルに納得できるのか?

けっきょくのところ、根本的な動機付けと関係性の持続には――政治・宗教・性愛など、ふつうはタブーとされるような、つまり「揉めてしまう」ようなポイントでの動向が決定的になる。とはいえ、タブーを話題にしても上手くいくとは限らない。*1

ここらへんに着手した議論がどうしても必要なはずだが――いまのところ、話題としてあまりにも忌避されている。こうした話題にさわった瞬間に排除される、という状態がえんえんと続いており、そこが致命的な問題事情になっている。

支援者は、「命を助けなければ」という使命感を持っておられる。それ自体はウソではないとしても――その使命感は、自分の私的人生を巻き込んだ動機づけではない。私的に相手を愛しているから助けたいのではなく、「仕事だから」であり、それがいくら真摯であっても、支援対象からすれば仲間やパートナーとは位置づけが違う。

支援者のプライベートな欲望や人生は、仕事とは別に大事にされなければならない――それは当然だが、むしろ孤立支援では、思想絡み・骨絡みの「私的な要因」こそが強く問われる。そこに気づかない限り、いつまで経ってもこの停滞が続く。

今はアカデミックな思想研究でも、「論じる自分の話はしない」という態度が当たり前になっており*2、それゆえに、自分を棚に上げたようなダブスタは暗黙に容認されている。つまり、支援が骨絡みの議論を排除するのは、いまの支配的な知的態度そのものの問題であり、たんに支援業界だけの話ではない。

支援対象を一方的に「対象化」するような、自分とは別格の「対象」として扱うだけの態度を、いかにやめられるか。相手も対等な人間であり、それゆえお互いに興味を持てるかどうかの話にならざるを得ない――そういう発想での話を始められるか。

ありていに言うと、政治や欲望の絡んだ生々しい話ができるか。ここでは支援者の思想も当事者性をもって問われることになるため、マイノリティだけを「当事者」と呼ぶのとは別の言葉遣いが求められる。支援事業における、思想や欲望の当事者性の問題。



*1:気の合う相手との付き合いは、往々にして肝腎な部分を言語化しないまま進んでしまうし、そういう場合にこそうまく行ったりする。しかし少なくとも、思想と呼ぶしかない何かが支援者にも対象者にも問われている、そのこと自体は原理的に意識しておかなければならない。アリバイ作りに終始するような口先だけのやり取りは、根本的な動機付けにならない。

*2:研究者の良心とすらされる