永冨氏への反論――内発的なリアリティと、理論的な制限

  • 支援者サイド自身が、みずからを「動機づけと心的リアリティの《当事者》」と考えることを怠っている。
    • 「ひきこもり」は、政策課題としては、予算がついたことがない。 つまり現状の公共圏においては、「ひきこもり支援」は、狭い利害に囚われた私的な問題意識としか見做されていない。 議論のレイヤーが変われば、支援者がひきこもり論をしていること自体が、「私的な当事者発言」でしかない。 支援者自身が、公共圏との緊張関係において、自分の欲望やリアリティを主張する「当事者」にすぎない。
    • 永冨氏の発題をきっかけに整理した上記「当事者発言の問題」4つは、支援者・被支援者の全員が当事者であると見做した上で、《動機づけ》相互の関係をさまざまなレベルで問題化している。


  • 「ひきこもりは多様である」という指摘は、「日本人は多様である」というのと同じで、何も言っていないに等しい。 専門知を否定している。
    • 理論知の否定ともとれるが、「どのレベルまでが理論なのか」の判断は、あまりにも恣意的・主観的である。 むしろ、「どのような主張も理論的である」と考えた上で、その正否を問うべき。


  • 永冨氏を含む支援者の多くには、《動機づけ》の要素としての当事者サイドの心的リアリティを尊重する姿勢が見られない。 単に、支援者たちの心的リアリティが模範とされている。 というより、模範とされるべき心的リアリティを生きられている者をこそ《支援者》と切り分けている。
    • 「全員が政治的交渉の当事者である」なら、言説化されることのない心的リアリティが、少数者の動機づけの問題として、取り上げられてもいいはず。 ▼多くの「心的リアリティ」は、単に少数者の問題として、「なかったこと」にされる。 「当事者発言」へのニーズの多くは、「心的リアリティの言説化」にある。 多様性に応じて、さまざまな人が試みる必要があると思う。
    • 被支援者本人に《厳しさ》を要求するとして、それは外部からあてがわれた厳しさなのか、それとも本人の内発的要請が必然的に呼び寄せるものなのか。 トラブルに満ちた社会参加を継続するには、「内発性に呼び寄せられた厳格さ」が必要であるというのが、私の立場。






■参照: 【『論点ひきこもり』: 永冨奈津恵氏インタビュー