労働行為としての、「心的リアリティのメタ的描写」

無意識的に生きられてしまっている心的リアリティをメタ的に言説化し、それを共有できる体験には、言説の文脈を賦活する効果がある(参照)。 つまり、「臨床的な」効果がある。
ひきこもりに関する、「心的リアリティのメタ的描写」の活動は、いまだ「仕事」としてほとんど認知されていない。 それゆえ、評価の制度も整っておらず、いくら頑張っても「労働」の扱いを受けない。 そもそも現時点では、この労働に仕事として取り組んでくれる経験当事者はほとんどいない。 オリジナリティへの勘違いで自意識に浸りこんだり*1、思いつきで断片的なことを言う人はいても、葛藤とメタ的描写との往復を労働として粘り強く引き受けてくれる経験当事者が、あまりにも少ない*2
言説化の作業があっても、それが《当事者(支援対象者)》としての発言でしかなければ、「よくできたね〜」と、子どもをあやすように褒めるしかない。 しかし、《対等な責任と義務を負う個人》の発言として提出されたのであれば、正当で容赦ない批評の対象になり得るし、そうでなければかえって失礼に当たる。
当事者発言が、保護と愛玩の対象としてではなく、「必要な労働」として、つまり「批評の対象」としても、提出されるべきだ。 「《存在》として無条件に肯定される当事者言説」(参照)ではなく、「《言葉》として、対等な対話的関係に巻き込まれた主権者言説」として。
労働行為としての当事者言説と、そこから結果する労働生産物。 それはただ「苦しい」と漏らすことではなく、自分の内的外的窮状について、メタ的・分析的に語ること。 「語られる存在から語る存在になる」ことにおいて、象徴的な交渉関係に参入し、そこで屈辱感と格闘すること。 親が子供を見守るような、想像的な保護と遺棄の対象であること*3にとどまらないために。







*1:とはいえ、そういう手探りでお互いに始めるしかない。

*2:例外として、岡本圭太氏(参照)、梅林秀行氏(参照)など。 その発言は、「当事者発言」として別格視=差別されるのではなく、お互いに批評の対象になるべきだ。

*3:東京シューレにとっての「当事者」は、そのような位置にある。