ポリコレ系の言説は、名詞形のカテゴリ分けを議論の大前提とする。(「男」「女」「○○人」「LGBT」etc.)
これはいわば、超越的で絶対不可侵の前提であって、
そもそもそのカテゴリ分け自体が便宜上のものに過ぎないこと、また「カテゴリ以前に同じ人間だろう」といった理解は禁じられてしまう。
名詞カテゴリを絶対視しすぎることで、左派は自分たち自身が差別的な概念操作をしている。(そしてこの指摘自体が抑圧される)
カテゴリを絶対視したマイノリティ擁護は、いわば宗教のような様相になる。そのカテゴリを守ろうとする態度は神々しい位置づけを持ち、彼らは絶対不可侵のカテゴリのまわりにおずおずと服従する。
この概念操作はあまりに絶対的なので、社会全体に均一的な服従が強いられる。多様性は許されない。これを批判するには「専門的に」内在し、その差別的概念操作を受け入れ、習熟し、さらには個人崇拝の対象になるしかない。無名の門外漢が矛盾を端的に指摘することは許されていない。*1
擁護対象だったはずのカテゴリ内の人も、支配言説の概念操作に逆らえば粛清の対象になる。差別的な概念操作に従わない者は、こんどは「党派的に」迫害の対象になる*2。反差別を口実にした、党派的な組織暴力――これが現代的差別の主要な担い手。
いわば、議論がカテゴリ名詞にばかり支配され、動詞的な振る舞いをめぐる吟味が許されなくなる。「この人は○○だから」が何もかもを支配してしまう。
こうした言説環境では、カテゴリ分け以前に「その人が何をしているか」を問うことは抑圧される。