《制度》としてのジェンダー役割

不登校経験者の集まりで、今のところ「異性愛女性」の多い*1Soui』への参加は、ちょっと印象に残るほどラクだった(参照)。 女性がヘゲモニーを握っていて、「おとこ」扱いされない場が、いかにラクか・・・。*2
しかしこのとき、貴戸理恵だけは「おんな」という制度的役割を演じ続け、そのため自動的に私は「おとこ」にさせられた(男というジェンダー役割を押し付けられた)。 「おんな」というアイデンティティを外されては、貴戸は自分を社会化できないのかもしれない*3
このあたり、上野千鶴子の『脱アイデンティティ』と同じ欺瞞を感じる。上野は「脱アイデンティティ」と言いながら、「おんな」という属性アイデンティティに拘泥しまくっているではないか。貴戸も上野も、「おんな」を差別化した上で、それにかぶせられる不利益のみを取り去ろうとしている。制度的な差別を残した上で、特権性のみを残そうとしている。▼本当に必要なのは、制度的差別そのものを換骨奪胎することではないのか。「おんな」というジェンダー役割にこだわるなら、こちらは自動的に「おとこ」という役割に閉じ込められる。

    • ある人が指摘してくれたが、これと同じことが「親子」にもいえる。「親」という自分の役割意識を押し付けてくる人は、「子」という役割に相手を閉じ込める。「子」「親」という役割意識から自由になることが必要だ。それは単に関係を解消することではない。▼そしてもちろん「子」の側は、この硬直した役割意識に守られている部分もある。赤の他人は、「病気でもないのにひきこもる人」を扶養したりはしない。




*1:【追記】: 「異性愛女性を中心とした集まり」と記していたのですが、特定のセクシュアリティを理念的中心としているわけではないとのことで、記述を改めました。

*2:「女のくせに」というのは「でしゃばりやがって」という意味で差別発言になるが、「男のくせに」というのは、今でも女性がそういう言い方をして、平気で通ってしまうことがある。 「男のくせに」っていうのは、「しっかりしろ」っていう意味だ。本当にしんどい。 ▼【参照】:ミニコミ『Soui』第2号掲載、「男ゆえのしんどさって、なんでそんなにしんどそうなのか?」。 不登校経験者の30代の女性が、同世代の男性にインタビューしている。

*3:これは他人事とばかりもいえない。私は、「ひきこもり経験者」というアイデンティティを外されて、社会参加できるだろうか?