レポート 『不登校は終わらない』(3)

前回
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★目次


承前

今回取り上げた諸問題については、今後も継続的に考えてゆきたいと思っています。*1
レポートの最後に、報告者である私の簡単な覚え書きと、リンク集を作ってみます。

メモ

  • 「当事者の言葉」は、いわば《原典》として扱われる。しかし、そこにはすでにズレが生じている。体験情報の原典性と、本人の意識による解釈。後者については、批判される可能性があり得る。(「アカデミック・サークルに居るかいないか」は、アリバイとして関係ない。)
  • 一定の解釈を紡ぎだす調査者は、いわば「翻訳者」として非難される。「翻訳を間違った」こともあれば、「実際に言ったのだが、オフレコだった」こともある。「口にしていい言葉」は、社会的・心理的な力関係の中で決められる。
  • 当事者発言の原典性は、その言語としての脆弱性や、言葉のコードに乗らない「言葉以前の何か」に淵源を持つ、独特の「オリジナリティ」に求められる。しかし当事者の体験や言葉は、それ自体としては基本的に陳腐であり、「サンプルのひとつ」にすぎない。「体験の深刻さ」と、「文化的オリジナリティ」は別の基準。
  • 「当事者」という言葉の強調には、傷ついた人間についてうかつな口をきいている連中への怒りがある。言葉の脆弱性を原理的要因とするタイプの当事者と、そうではない当事者に対しては、調査倫理が(少なくとも量的に)違ってしかるべき。
  • 運動体は、体験情報の解釈権を独占しようとする。それは、「体験を守る」ために一定の役割を果たしつつ、既存の解釈枠に掬われていない新しい体験情報の可能性を抑圧する。弱い存在である当事者が、強者たち(既存アカデミズムや運動体)と解釈権で争うためには、アカデミズムの手続きを必要とするのではないか。
  • 当事者は、原典としての体験情報を持ってはいるが、それは解釈者やアイデアマンとして優秀であるための条件の一部に過ぎない。体験としての真摯さは、解釈やアイデアの優秀さを保証しない。
  • 《当事者による研究》(当事者学)が、モチベーション・レベルで格別の強度を持つのは当然だとしても、取材プロセスや解釈結果について、「当事者ならでは」のクオリティや差異を主張できるだろうか。できるとすれば何か。
  • すべての原典(体験情報)が尊重されるわけではない。尊重は社会的決定事項であり、政治的に優先順位が決められる。*2


リンク集(一部)

今回の案件に関連し、参考にさせていただいた記事のリンク集です(敬称略)。
見落としもあると思いますし、随時追加しようと思います。
ほぼ時系列順です。


*1:取材に協力くださった貴戸理恵さんと常野雄次郎さんに、感謝申し上げます。ありがとうございました。

*2:東京シューレは、貴戸氏の研究を「フリースクール運動の成果」と捉えることはできなかったのだろうか・・・・。「不登校擁護運動ゆえに、このようなたくましい当事者も登場し得たのだ」と。