被差別男性に、セクシュアリティを論じる権利はあるか

クリスマス・イヴにふさわしい話題を。

ここからの問題提起です。


現状では、

 セクハラの訴えがあったら、男性側には反論の権限がない

のが通例のようです。


被差別男性の与える不快感が、実際に不当なものになっていることはあり得ます。
もちろんそれについては、改善の努力をすればいい。
問題は、経歴で自動的に嫌悪感をもたれるケースです。*1


差別的嫌悪感は、嫌われた側に努力のしようがありません。
それも「男だから、反論は許さない」というなら、社会生活ができません。


私は猥談がろくにできませんが、*2
まじめなセクシュアリティ論をしてすら、セクハラ扱いされかねない。


ましてデートや交際を申し込めば、

 「ひきこもりのくせに、性的なモーションを起こした」

として、社会的に抹殺されるでしょう。*3


バカバカしいと思われるかもしれませんが、本当に深刻です。
女性との同席が強い恐怖を伴う、大きな理由になっています。*4


ムリに仲良くするのではなく、棲み分ける選択肢もあると思います。
必要なのは、話し合いのチャンスが許されていることです。


現状では、「差別が恐いので、女性とは同席したくない」と言えば「女性嫌悪」としてバッシングされ、ではと同席すると、「ひきこもりのくせに、近寄るな」。 タテマエと実態に引き裂かれ、被差別側がリスクに晒されています。



これは、「差別と批判の見分け方」のバリエーションです。

経歴や属性で名詞化し、無条件に排除するのは差別ですが、
「実際にやっていること」、いわばそのつどの動詞的なあり方を問題にするなら、
それは差別ではなくて、つねに必要な検証作業です。


今回お読みくださった皆さんには、「差別と批判は何がちがうか」、
はっきりした態度表明をしてほしい。


たとえば石元清英氏へのインタビュー【1】【2】には、

 「本質的な議論がなされていない」 「深い考察をしているとも思わない」

とあります。 これは、本当に恐ろしいことです。


フェミニズムその他、差別問題の研究者は、差別と批判の見分け方について、
原理的な基準を持っておられないのではありませんか。
だとしたら、単に「批判」しただけで、「差別した!」と罵っていませんか。
あるいは逆に、「政敵なら差別しても構わない」になっていませんか。


今回提起したのは、議論が整備されていないことによる、ゆがみの一つです。
まじめな議題にさせてください。



*1:たとえばこういう状況。 経歴を言った瞬間、目の前にいるのに、口をきいてくれなくなる。

*2:生理的嫌悪が激しいためです。基本的に猥談を楽しむのは、性的強者たちでしょう。こういう手合いが、自分は散々グロテスクな猥談をしておきながら、性的弱者をいじめ倒して楽しむのです。 「お前は童貞で引きこもりのくせに、セクシュアリティ論をしたな、セクハラだ」 →この発言自体が、男性による、男性へのセクハラです。 男性同士でも、セクハラの訴えは成り立ちます【参照1】 【参照2】。 周囲から性愛談義を強要されている男性は、法的手段も検討してください。 cf. 【職場いじめ裁判例:川崎市水道局事件

*3:女性は自衛のために、「○○のくせに」の部分は、口に出して言わないことがあるでしょう。だとすれば、ますます被差別男性は不利になります。

*4:どの女性が差別的なのか、簡単に見分けられません。こちらの猜疑心を女性が読み取って、さらに嫌悪感を持たれる悪循環も感じています。