「観察対象」なのか、語り手が関与者なのか――逸脱としての分析

「社会的ひきこもり」は、医者や学者が第三者的に観察対象にむける呼称だが、「論点ひきこもりは、関係者や論者が、関与者として組み込まれた表現になる*1。 論じようとする者にとって解消不可能の論点であり、ひきこもっている本人自身は、いわば制度として硬直してしまった論点そのもののように成立している。本人の意識自身が、硬直した論点そのもの。
斎藤環のいう「実体化」(参照)は、そのあたりの事情を表現しているが、それはやはり状態を外部から記述して終わっていないだろうか。記述者である斎藤は、そこにどう関わるだろう。


斎藤環がブログに掲載した「望ましい治療モデルとは」は、臨床家としての見事な記述と感じるが*2、私はここでも、「記述のスタイル」に窮屈なものを感じる。対象を記述しつつ、記述する主体の側が「対象の外部」に固定されており、観察対象との関係は、静態的なものでしかない。観察という行為に、対象との相互関係的なダイナミズムがなく、言及や観察の行為自身が《制度》として固定されてしまう。――ここでまたしても、私の「順応フォビア(恐怖症)」的なものが顔を出す。私が斎藤の(ラカン派的な)目線をみずからのものとすることは、それ自体が「制度順応」ではないだろうか。


私が斎藤への質問を失敗したのは、自意識過剰でナルシストの傾向*3とともに、私自身が、斎藤のように「知的に」のみ語ろうとした結果ではないだろうか(今の私は、そのように理解している)。私はあくまで、現場的に、あるいは《当事者的に》しか*4語れない語り手であり、そのことは、ひきこもりの主体形成にとって内在的なテーマではないだろうか。ひきこもりの「実体化した主体」(斎藤環)は、観察対象にしている限りそこから出てこれない。主体の実体化自体が一つの制度であり、そのことを本人自身が換骨奪胎的に理解する必要がある。それを語ろうとする記述は、観察者にとっても、関与的な《当事者語り》にならざるを得ない。観察制度を固定したままの「観察者」にとどまることはできない。そのような固定的な目線そのものが引きこもる意識の制度を固定する。「支援者−ひきこもり当事者」という関係の固定が、悪くはたらく。


たとえば東浩紀の「環境管理における動物化」という議論では、「みんながバカになっても回る社会」が考えられており、その環境の中でみずからの主体をうまく組織できない苦痛がそれとして問題化されることはない*5。 ▼主体として成り立つことにずっと困難を感じてきた私は*6、80年代の「スキゾ」ブームにも消費文化にも馴染めず、そうした流行は、主体の困難をそのまま肯定されることでしかなかった(とても耐えられないし、方針にならない)。そこでフロイト大義*7、つまりラカン的な「欲望の倫理」に一つの指針を見出したのだが、今の私は、いわば「ラカン派の制度的視線」に窮屈さを感じている。
そこでは、語り手の言葉そのものが抱え込んでいる現場性が見えてこない。仮にその語り手が(斎藤環のように)臨床現場をもつ身であっても、語りのスタイル自身が、制度的に固定された「観察者(メタレベル)」になっていないか。その言表内容はあくまで、(悪しき意味で)「知的に」語られているのではないか。つまりそこでは、語っている本人自身の当事者性が等閑視されている。それは、まず何よりも主体の困難をみずからのものと考えない。みずからがどのような制度の実現としてみずからを主体として成立させているのか、少なくともその制度的方針については、もう解決したことになっている。▼学者の多くは、自分の学問のディシプリンに疑いを持たない。「これは科学だから」云々と価値を誇示し、みずからの主体がその制度に則って再生産されることに、その制度的スタイルそのものに、疑いを持たない。みずから自身の動機づけの問題は、すでに「なかったこと」になっている。疑いを持ち始めると、専門性が構成できなくなる。あるいは、一つのジャンルに「入門」できなくなる(違和感をもち続ける)*8


今の私は、単なるバラバラな多様性(スキゾ)称揚ではなく*9、かといって分析そのものが制度化されたラカン的な方針でもなく、状況や自分の意識が生きている制度への分析を遂行する営みがプロセスとしての主体形成そのものとなる「制度論に、活路と興味を見出している――というか、その議論に最大の自由を感じている。 分析の倫理、あるいは「分析の consistency」*10が、そのまま自由な主体形成の指針になる。 単なる野放図な自由ではなく、「逸脱行為としての分析」の必然性に導かれる自由。 「どうしても、そんなふうに考えずにはいられない」を、なるだけていねいに生きてみること。 分析そのものが、逸脱行為として構成されてしまうこと





*1:論点ひきこもり」というタイトルの着想元は、ジジェクによる社会的な「antagonism(敵対性)」論だ。 ▼ジジェクの語る社会的な「症候」としての antagonism は、それを飼い馴らそうと押さえ込んでも、またどこからか回帰してしまう(現実界)。 ひきこもりは、それ自体が解消不可能の論点のように成立している。

*2:斎藤の記述は、対象(患者)を《交渉主体》として描いている。病気であるか否かではなく、交渉主体としての状態を記述している。

*3:それは、私をひきこもりに導く「実体化」と深く関わる。抜け出そうと思っても抜け出せない自意識の苦痛。私はとにかく、自分のことを意識しなければならない状態がひどく苦しい。

*4:ベタとメタの往復の中でしか

*5:動物化した主体のありようとして、「郊外のヤンキー」が冗談めかして称揚されたりする。 「ぼく、時代はギャル曽根って気がしてるんだよね。これからはヤンキーだよ」(「ギートステイト」)

*6:その困難は、主体の「実体化」に直接関係している。

*7:フロイト的な欲望」の倫理に基づくみずからの学派を、ラカンは死の直前、「フロイト大義派(École de la Cause freudienne)」と名づけた。

*8:三脇康生はこのあたりの事情について、ある小文で「入門拒否症」という言葉を使っている。▼ラカン派ではこの「制度的ジャンルからの避けがたき逸脱」を、《symptôm 症候》という言葉で説明するのだと思うが(いわば逸脱自体が《症候》という言葉で制度的に回収されている)、ガタリでは、《transversalité トランスベリサリテ》という言葉になるのだと思う。

*9:80年代の日本でなされたドゥルーズ=ガタリ紹介は「スキゾ称揚」でしかなかったが、それは根本から間違っている、というのが三脇康生の指摘だった(参照)。

*10:「consistency」は、「一貫性」という意味。【参照