「差別は構造の問題である」――環境設計と、名詞の問題

小山エミ(Macska)氏の差別論について、野間易通のま・やすみち氏が説明しておられます。ずっと説得的な話が続くのですが、最後でとつぜん飛躍している:

 「レイシスト差別」「ネトウヨ差別」はもちろんのこと、在特会関係者が公に主張している「日本人差別」が定義上成立しないのは、こうした理由からである。

話がメチャクチャです。
この議論そのものが、差別的な言説を再生産している。


以下、「構造的な不利益」というモチーフに、批判的な提案を追加します。



ある条件をもつ人が「構造的に」不利益をこうむるとき、

  • その件で《不利益を受けない側》を実体化して、事情を調べもせずにいきなり悪者にする

のは、それ自体が、
まさに「構造的な不利益」を再生産しているのではありませんか。


つまり「構造的」という場合、

    • (1)環境設計
    • (2)言葉の運用のあり方

大きくこの二つの意味があるはずです。



言葉における構造的排除

右派系も左派系も、
立場の弱さ(マイノリティ性)を構成し得る条件でカテゴリーを作り*1名詞形のレッテルを貼ります(「患者」などもその一例)。そして人間の関係を、カテゴリーでしか考えない。
それゆえ、動きの中での検証や組み直しがなされず、カテゴリーそれ自体が構造として硬直していることに、気づかないのです。


端的に言えば、

    • 誰が《被害者≒当事者》で、誰が加害者なのかが、名詞形のカテゴリーで固定されている。(性別、民族、etc...)

そのため、身分制のように善悪が決まっていて、
具体的にどうだったか、「今回はどうだったか」が確認されないまま、片方のカテゴリーが常に悪者にされる――そういうことがありませんか。*2

    • たとえば、「“女性”が被害を訴え出たら、“男性”には反論の権限が認められず、状況証拠を出しても確認すらしてもらえない」など。これは双方にとっての《構造的排除》です。女性の側にも、男性と対等の扱いは永遠に訪れません。*3

これは野間氏の挙げている例で言えば、

 (3)駅に来ると、親切な周りの乗客がいつも快く階上のプラットフォームまでその人を運んでくれる

にあたりそうです。つまり、
差別の根本構造としての名詞形は温存されたまま、むしろその構造を補強するようにして、《親切》が為されるのですから。*4



正義ポルノ

弱者っぽく見える誰かを《当事者》ポジションに置き、
その人を擁護しておけば、自分が正しそうに見える
――こういうのは、実際に遂行すべき正義というより、いわば「正義ポルノ」でしょう。いかにも「それっぽい」単純なポーズを見せつけ、あるいは見せ付けられて歓喜するだけで、ディテールは検証されません。これは冤罪の温床であり、それ自体が、差別的なハラスメントの実行行為です。*5


すぐに属性で切り分けて、話を終わらせてしまう。
それはまさに身分制であり、「構造的な」排除です。



名詞形による身分制

差別を考えるときは、

 誰かを名詞形で処理する

というスキームそのものについて、
考えなおす必要があります参照


現状の反差別論は、各人の《名詞形》を前提にしすぎるために、
差別に反対するはずの議論そのものが、差別を再生産しています。



*1:性別・病気・障碍・経歴・民族その他、「立場の弱さ」を構成する要因は場面によって異なる。▼ある場面ではマイナスの要因になることが、別の場面ではプラスになることもある(ex.犯罪歴が、特定の人間関係では「ハク」になるなど)。

*2:名詞的に実体化された「男性」「日本人」などが、ケースごとの検証を受けないで自動的に悪者にされる。これは、左派系の言説やコミュニティで繰り返されている差別です。

*3:ヘイトスピーチ」という言い方が欺瞞的なのは、差別は必ずしも「嫌悪」という形をとらないからです。(たとえば差別的な支援者の目線は、必ずしも「ヘイト」ではありません。本人は慈愛のつもりだったりする。)

*4:具体的な場面で、名詞形の区切りを参照しながら対応がなされるのは、当たり前です。問題は、名詞形が杓子定規にすべてを支配し始めるとき――それは明白に「官僚的」なのです。

*5:自分がハラスメントの加害側に立つリスクをまったく考えない、その可能性すら認めない議論は、ハラスメントそのものです。