連続エントリ:
- 第1回 「《つながりの作法》 としての差別」
- 第2回 「《不定詞の束としての人格》という考え方」
- 第3回 「生の様式そのものとしての不定詞 infinitif」
- 第4回 「差別と批判の見分け方」(今回)
- 第5回 「【追記】 民族浄化ならぬ、当事者浄化」
【承前】 3回にわたってエントリしてきましたが、今回でようやく核心です。
批判的な議論をするとき、それが「意図せざる差別」なのか、それともフェアな批判なのか、よくわかりません。 この違いを明らかにしておかないと、
- 「差別される側のやってることは、誰も批判できない」 「被差別部落のことは、論じちゃいけないのか」
になって、みんなが萎縮してしまいます。
私の提案するポイントは、《名詞か、動詞か》 という一点だけです。
(2)《動詞のスタイル》 については、いくらでも分析や批判があってよい。
- 拙エントリ 「《不定詞の束としての人格》という考え方」 を参照。*3
過去や現在の事情は、現状の不定詞を考え、組み直すためにこそ参照すべきです。
ところが今回の「ハシシタ」記事(参照)のように、過去の詮索が
-
- 名詞形カテゴリへの還元 【無時間的】
- 《原因−結果》 的な決めつけ 【時間的】
に終始するなら、調査や分析の全体が差別的になります。
「被差別部落出身だから、こういう発想なんだ」という因果的な決めつけは、動詞として生きる相手に、《これから》 のチャンスを与えません。――名詞への還元もふくめて、差別的な排除というのは、《相手の動詞が変化することへのあきらめ》 と言えそうです。
つまり差別的というのは、《動詞にチャンスを与えない議論》 なのです。
今回の『週刊朝日』「ハシシタ」記事の場合
父親が被差別部落出身だからとか、親族に犯罪者がいるからという因果論は、
あくまで 《決めつけ》 であり、動詞としての橋下氏には、どうしようもありません。
つまりこの記事は、橋下氏を分析してどうこうというより、
「あ〜、やっぱりなぁ〜」 しか目指していない。
-
- 「部落」等々の名詞の解釈が固定されているのは、差別的な議論の特徴です。名詞は、「落としどころ」に使われる。
「ハシシタ」記事の問題は、部落問題を持ち出したことそれ自体ではありません。
議論の設計図がいけないのです。批判対象の動詞に、チャンスを与えていない。
逆に言うと、
動詞レベルで自分と対等にあつかい、検証のためにさまざまな環境要因を扱うとすれば、どういう事情を論じてもよいはずです。(同じレベルにいるのですから、この場合は論じる側も、自分の不定詞や経歴情報を検証されるスタンスが必要です。)
以下、細かく説明してみます。
名詞をめぐる悪循環としての差別
たとえば、ユダヤ人とされる人の言動を調査して、
こういう悪循環に陥ったら、議論はすべて、《ユダヤ人》 という名詞形に監禁されてしまいます。*4
「ユダヤ人」を調べ、「ユダヤ人」についてのメタ認識を蓄積し、あたらしい人物理解に利用する。*5
この悪循環の固着が差別です。
固有名の、一般名詞への置き換え
今回の記事で 《橋下徹》 は、名詞形の罵倒対象でしかありません。
糞便を投げつける的(マト)です。
こうした固有名は、一般名詞に置き換えられることがあります。 たとえば、
さきほどの「ユダヤ人」と同じで、循環しています。
こうなると、動詞としての橋下氏をめぐるていねいな考察は、やせ細ります。*6
あとはこの循環を確認し、強化するネタ探しがあるだけでしょう。
不定詞の、一般名詞への置き換え
ややこしいのは、ひとは確率的には、ほぼ同じ不定詞(動詞のパターン)を繰り返すため、
その不定詞に名前を付けてしまえば、「名詞形で差別する」という言及は、それなりにうまく行くことです。
たとえば 《ファシズム》 は、一定の不定詞(動詞としての様式)を表しています。*7
そして名詞形としての 《ファシスト》 は、「ファシズム的な不定詞を生きる人」でしょう。
各人の不定詞(動詞の様式)は変化し得るので、誰かを「ファシスト」という名詞形に還元するのは不当ですが、確率的には、個人の言動はたいてい同じパターンを繰り返すため、「名詞的な決めつけ」が、それなりに役立ってしまいます。*8
そこにあるのは、《動詞としての相手を変えることなんて、基本的にはできない》 という絶望でしょう。
しかし、私たちのお互いへの言及が名詞形に終始すれば、差別合戦しか残りません。
相手への批判は、名詞形による処理ではなく、
《動詞として動詞を批評する》 というスタンスを、堅持すべきです。
ここは本当は、ものすごく微妙な話です。
たとえば、「過去に虐待されたから、こういう価値観になった」 という因果的理解は、
努力のチャンスがあるなら有益な理解ですが、「だから諦めるしかない」では、排除になります。
それは結局、相手を(あるいは自分を)「虐待の被害者」という名詞形に、還元しているでしょう。
私たちは自分や相手を、つねに動詞形としてやり直すべきです。
ところが、
- 「相手の存在を名詞に還元はしないが、実際に話してみて、動詞としてのこの人には関わらないと決めた」 とか、
- 経歴を聞いて敬遠することが、《集団的な動詞様式への確率的な警戒》 になっている場合、
それは差別というより、生活上の知恵かもしれません。
「あらゆる他者を無条件に受け入れる」なんて、生活者には無理です。
できるという人がいたら、そのひとの生活実態や言動を、詳しく調べるべきでしょう。 「権力志向の奴は出ていけ」とか、「他者を受け入れない奴は認めない」とか、「こっそり排除」とか、やってませんか。(あらゆる他者を無条件に受け入れるんじゃ?)
他者論をする人も、必要にあわせて 「あの人には期待しない」 とか、「○○派の人か、じゃあ話してもしょうがないな」 などと、言ってるはずです。つまりここにあるのは、党派性の問題でもあるのです。
――難しいところですが、
とはいえこの考察も、《名詞か動詞か》 のフォーマットに乗っています。
硬直したメタ・ポジション
話をもどします。 冒頭で記した、
(1)名詞形カテゴリへの還元、 (2)動詞のスタイルへの批判 に対応して、
相手の情報は、どういう発想で集められているでしょうか。
- (1)相手の存在を、経歴や名詞に還元して、循環的な決定論に閉じ込めるため
- (2)反復される言動や関係性のスタイル、つまり 《不定詞の実態》 を暴き出すため
(1)は、自分の抱え込んだメタ認識を確認し、増殖させているだけです。
つまり、論じ手だけがメタ・ポジションにおり、相手は 《対象》 のレベルにある。
言説のうえで、棲んでいる階層がちがいます。 動詞としての相手にチャンスはないし、
メタに居直った論じ手の動詞も、環境をチェックされず、無自覚に固定されています。*9
いっぽう(2)では、動詞としての相手側に自由が残っているし、
論じ手も相手と同権の動詞でしかないので、メタに安住できません。
精神科的な鑑別診断の責任
今回の「ハシシタ」記事に関してはやや脇道になりますが、
相手の不定詞(動詞のスタイル)に、病気や障碍の影響を読み取ることを期待されているのが、
精神科的な「鑑別診断」です。
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- 鑑別診断とは、《この人は病気なのかそうでないのか、病気だとして、似た病名のうちでどれなのか》 を、言い当てる仕事です。 医療実務では法律上、医師にしか許されていません。治療指針や裁判結果まで左右するので、大きな 《擬似-メタ的》 権力を付与された独占業務です。
病気や障碍の影響があるとすれば、不定詞をめぐる検証は、特別の配慮を要求されるでしょう。
―― そして病名等がはっきりすると、今度は 「病名・障碍名」に還元する差別 が始まる。*10
また、病気や障碍とは言えない人にそうした診断を与えることは、相手への評価を不当に歪めますが、
- 発言すべてを「病気の症状」に還元することは、おぞましい差別的排除であり、診断の権力が政治に利用された形になります*11。 ここでは、動詞すべてが 《病名という名詞》 に監禁される。
- たとえば不登校や引きこもり、依存症や摂食障害などは、《人格≒動詞》 の問題なのか、それとも 《病気》 の問題なのかで、位置づけをめぐる議論が続いています。 動詞としての実態があまりに硬直している場合、「病気」「障碍」の枠を適用するかどうかで、葛藤が生まれるのです。
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- 本稿は、「差別かどうか」を見分けるための論考ですので、支援の取り組みそのものに分け入ることはしませんが、《批判者》 が為すべきことは、不定詞への批評と介入であるという意味において、《臨床家》 がやるべき仕事と重なってくる(逆にいうと、ダメな臨床家は、「誤った批判者」と機能が重なる)――というのが、現時点での私の理解です。
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差別的ではない批判は、次のような作業であるはずです。
相手がどれほど差別される側であっても、これは徹底的にやるべきだし、
むしろこの吟味を免除するとしたら、それこそ差別的と言うべきです。
(動詞としての相手に、自分と同等の権利や可能性を認めていないから)
批判されるべきは、あくまで動詞としての相手であり、その反復される様式であって、
わかりやすい落としどころになるような名詞(病名や出身地・民族名etc.)や因果論は、
分析を進める上での素材や、手続き上の都合にすぎないと、肝に銘じるべき。
誰かへの批判が、「名詞への還元」 や 「因果的な決めつけ」 に終始するなら、
それは批判者じしんが、差別主義的・官僚主義的なルーチンに、はまり込んでいるのです。
「当事者への配慮」ではなく、《全員の当事化》を
部落問題にかぎらないことですが、
マイノリティ本人が言うなら許されるが、ちがうなら許さん
という発想が、根強いように思います。
そこで常に悩まされるのが、《当事者》 という名詞形で、
私はこの概念枠に、抵抗しています(参照)。
当事者として(名詞形で)尊重するだけでは、お互いの不定詞を分析できません。
それどころか、特権扱いのお作法だけが固定され、抑圧は強まります。
つまり「当事者」枠の採用は、不定詞をめぐる重大な決定の、終わった後の姿なのです。*12
ですので、「誰が本当の当事者か」 とか、「誰でも当事者になれる」 など、
名詞形を前提にした概念操作にこだわるのではなくて、
むしろ動詞形で、私たちを 《当事化》 しましょう――つまり、名詞形で役割を区切る必要も含め、私たちがお互いをどう調整し、処理しているか、その不定詞の実態について、全員の加担責任を考え直してみましょう――これがさし当たっての、私の呼びかけになります。
*1:「女」「ホモ」「部落」「朝鮮」「日本人」「ひきこもり」等々。 ex.「俺なんて引きこもりだからさw」は、名詞形カテゴリ前提の判断なのでダメ。しかし以下で述べるように、《ひきこもる》という不定詞の内実は、批判的検証に晒されます。
*2:たとえば「前科者のくせに」は差別的ですが、「影でいじめてるくせに」は、差別でもなんでもありません。
*3:できればリンク先を読んでいただきたいですが、本エントリだけでも、それなりに理解できると思います。
*4:その意味で、社会学者が「部落」「フリーター」「ひきこもり」など、名詞形への還元を前提におこなう調査は、差別を固定するものでもあります。そこで学者は、差別の解消や苦痛緩和に貢献するのではなく、ただ差別を前提に、「彼らの業績」を作るだけです。だからこそ、調査対象者への見下しも生じる。 ▼文化系トークラジオ『Life』での、樋口明彦氏の発言を参照:《社会学者の調査は、「フリーターについて」など、やる前からカテゴリーを決めてレッテルを貼っている。それよりも、一人の人間の持っているリスクが何なのか、誰にでも当てはまる汎用的な基準を作って、「フリーター状態にある人は、○○のリスクが高い」などとするべき。》 これは本当に素晴らしい指摘です。
*5:この「ユダヤ人」の部分に、「ヤンキー」「ひきこもり」「○○人」など、お好きな名詞形カテゴリを入れてみてください。それは自動的に、差別的な理解様式に手を貸すことになります。▼以下でも触れますが、これらの名詞形は、「くり返される動詞のスタイル」に名づけられてもいるので、それを踏まえたうえでの 《不定詞批評》 なら成り立ちますが、動詞と名詞の位置づけを間違うと、即座に差別的になります。
*6:批評的な検証であれば、積極面も見なければいけませんが、少しでも肯定的に評価すれば、「お前はファシストに味方するのか!」と、罵倒されるわけです。
*7:ここでは、本稿の議論に必要な、限定的な定義をしています。集団的現象としてのファシズムについては、いまだ議論が続いています(参照)。
*8:まったく同じことは、「左翼」「右翼」等にも言えます。何らかの政治的レッテルは、ある思考パターン(不定詞)が、固着しているということです。
*9:医師や学者の論じ方は、こういうものになりがちです。 ▼私が雑誌『ビッグイシュー』で行なった斎藤環氏への批判や(参照)、協働サイト『論点ひきこもり』終了時におこなった批判は(参照)、まさにこの点に関連していました。(『ビッグイシュー』連載は書籍化のご希望をたくさん頂くのですが、斎藤氏が連載の継続を拒絶し、そのまま頓挫しています。)
*10:私がじっさい目の前で聞かされたのは、「〔某有名占い師〕はトーシツだ!」というものです。当時TVに出続けていた占い師の発言に苛立ったこの人は、わざわざ差別的な簡略形を連呼することで、溜飲を下げていたわけです(「トーシツ」←統合失調症)。 ムカつく相手を病名に回収し、「病名を言えば罵倒したことになる」と思い込むこと。▼この露骨な差別発言も、部落問題の研究者によるものであり、「トーシツ」発言は、周囲に受け入れられていました。どうやら左翼系のコミュニティでは、批判対象を差別的に罵倒するのが、当たり前の作法のようです。
*11:ここでこそ、香山リカ氏の発言責任が厳しく問われます。これがエスカレートすれば、旧ソ連のようになるでしょう(参照)。
*12:名詞形で連呼される 「当事者」 は、じつは差別を再生産しています。あるいは端的に、書類用の行政手続の用語です(参照)。 ▼誰かを名詞形で区切ることは、保障給付などの場面では決定的な意味を持ちますが、たとえば「ひきこもり」の場合、名詞形で差別的に区切られるにもかかわらず、保障の対象にはなりません。 「名詞形を用いること」の功罪について、そのつど検証するべきです。