「属性帰属」と「論点帰属」

バックラッシュ*1がテーマのチャット大会に腹案を書き、それから編集者のかたに出版企画についてメールを書いていたら、「当事者が発言する(問題に取り組む)」ことについてのちょっとした視野が開けた。


こちらに書いたこととつながる。 (前後の文脈もあるのでここだけ抜くとまずい点もあるが)

 「ひきこもりであるか否か」という状態像における帰属ではなく、「論点を共有できるか否か」という論点帰属(?)だけを考えるべき【 → 「自称ひきこもり」】。
 当事者であっても敵であり得る。 当事者でなくとも味方であり得る。



属性帰属だけで「当事者発言」を考えると、「お前がひきこもり当事者の典型例と思われては困る。多様性があるし、そもそも本物の当事者は不可視かつ無声だ*2」とか、「お前はひきこもり当事者内の多数派だ」とか、さらには「ひきこもり問題はすでにメジャー。うちの問題のほうがマイナーだ」という「マイノリティ自慢」もあり得る。

 ところで、そのような細分化のひとつの兆候が「政治的な正さ」――「ポリティカル・コレクトネス」(PC)である。 「大きな物語」の解体はシニカルな政治離れを生んだが、他方で、あらためて政治的な正義を主張する動きが現われてきた。 ただし、かつてはプロレタリアという普遍的被抑圧者の名のもとに大文字の正義を語るのがPCだったとすれば、いまは女性や先住民や障害者といった個別的マイノリティの名のもとに小文字の正義を語るのがPCになったのである。 もちろん、それぞれのマイノリティ集団が自らのアイデンティティを主張するのは完全に正しい。 だが、たとえば女性の間にも先住民差別はあるし、先住民の間にも女性差別はあるわけで、そうすると、女性の先住民こそが、いや、さらにいえば障害をもった女性の先住民こそが真のマイノリティだということになる。 このようなアイデンティティ・ポリティクスが細分化の隘路に入り込んでいくのは自明だろう。 もうひとつの問題は、一応マジョリティの側に立つとされる者がPCを標榜するとき、マジョリティとしての自己に対する後ろめたさ、そこからくるマイノリティの過剰な美化といった、いかにもセンチメンタルな甘さが目立つということだ。 そのような自閉や感傷を吹き飛ばすためにも、やはり横断的なコミュニケーションが求められている。*3



それぞれのマイノリティ集団には、もちろん個別的なディテールがある。 それは細心の注意を払って尊重せねばならないのだが、それだけではマイノリティ集団同士で課題を共有できないし、同一マイノリティ集団内ですら、「どっちがより深刻か」「より少数派か」といった内紛を生む。
→ 各マイノリティの個別事情を最大限尊重しつつ、同時に「共有できる課題」における連携プレーを探る必要もある。 → これなら、「明らかにマジョリティに属する人間」でも、奇妙な感傷抜きに問題を共有できる。
そもそも、ほとんどの人間は何らかの属性においてマイノリティであり、あるいは複層的に帰属しているのではないか。 「正社員だけど同性愛」とか、「ひきこもりかつ女性」とか。 → 帰属の複層性に関係なく、「課題さえ共有」できれば一緒にやれる。


属性における当事者」と、「論点における当事者」という分け方は、すでにアカデミックには為されているのだろうか。



*1:参照1参照2

*2:サバルタン」とかの単語が出てきます

*3:浅田彰【領域を横断する怒りの批評】 より