(1)≪当事者属性が低いから語るな≫について

  • 当BLOGではもう繰り返し論じていることですが、典型的な「属性と課題」の混同です。 属性レベルで共有できるものがあるかどうか、という話と、課題レベルでプロジェクトを共有できるか、という話を混同している。
    • 逆向きの権威化が、「当事者同士の課題共有」、あるいは「経験者の為す社会活動」の足を引っ張るわけです。 マイノリティ運動に繰り返し登場する、どうしようもない泥沼劇。
    • 私は、自分を「ひきこもり状態」に追いやる様々な属性から、なるべく自由になろうとしています。 属性レベルでは、徹底して症状の軽減を図っているわけです。 苦痛除去を目指しているのだから当たり前。 「当事者っぽく見えるために、なるだけ属性を残し、つらそうにする」なんて、本当に馬鹿げてます。
    • ただそのとき、単に「症状改善」ではなく、たとえば「静態的中間集団が苦手だ」という私の課題から、≪動態的中間集団≫というモチーフも出てくる。 自分の苦痛から取り組みのモチーフを析出しているわけです。
  • 「共感と相互慰撫の共同体」(a)を成り立たせるための要請と、「具体的プロジェクト彫琢のためのミーティング」(b)とを混同している。 ▼(b)の議論をしている時に、(a)の論理(「お前は私のことを分かってくれない!」など)を持ち込んではいけないはずです。
    • たとえば id:hikilink さんについて、「恋愛したり学校に行ったりしているらしいから、ひきこもりとしての当事者属性が低い」という(非難の)声を聞いたことがありますが、彼の運営しているサイトは(少なくとも一部の人にとっての)有用情報に溢れているのであり、これはむしろ、「当事者属性がなくとも、ひきこもりに有益な活動はできる」ことの具体例として、胸を張ればいい。 ▼ただし、こちらのご指摘にある通り、id:hikilink さんご自身が「属性レベルでの争い」をやっている場合もあるようなので、ややこしいのですが。
    • 「プロジェクト・シェアにおいては、属性レベルは問題にしない」、「課題設定のための討議においてのみ、≪より深刻な状態像≫を問題にする必要がある」という決然とした峻別が、何としても必要です。
  • 「当事者属性の低い者は語るな」を≪サバルタン・ロジック(logic)≫、「課題としては不可視の存在を常に考慮しなければならない」を≪サバルタン・エチック(ethic)≫と呼び分ける案を、chikiさん(id:seijotcp)より頂きました。
  • 相手を共感の共同体に巻き込めなければその相手の活動そのものを絶対に認めようとしない、というのは、「共感の共同体」「活動の有益性」を混同した、どうしようもない「足の引っ張り合い」です。
    • 「共感」は、自分のどうしようもない状態に取り組み始めた初期においては必要なステージだと思いますが(私にもありました)、いつまでもそこに留まっているのは、単に「泣き寝入り」ではないでしょうか。 「泣き寝入りの共同体」に留まろうとすることは、弱者にとって有害でしかない。
  • 「共感の共同体」に居留まろうとする人は、ほぼ確実に「深刻度競争」を始めます。 私自身は、「有益な活動に向けての課題共有」を目指したいし、課題共有できない人による「私に共感しろ!」には、暴力しか感じません。 それは一定の当事者属性をフェティッシュ化し、当事者の活動努力をその属性内に封印しようとすることでしょう。 繰り返しますが、それは当事者が当事者に向ける暴力です。
  • コミュニケーションも、努力も、非常に困難です。 しかし、「だから絶望した状態に留まるべきだ」ではない(それは「絶望している自分」をフェティッシュにしているだけ)。 「困難ではあるが、でも続ける」というというところで、誰かとの課題共有を模索するしかない。*1




*1:ここのところで、「機能的・動態的・一時的」中間集団が問題になるのだと思います。