(2)≪対面で救え≫について

  • (3)とも関わりますが、「抽象的な議論は、論じている人の自己満足でしかない」という責めだと思います。 ややこしいのは、実際の「当事者によるひきこもり論」の多くは、そういう「自己満足」を目指すものでしかないこと。 しかし議論には、「プロジェクト共有指向型」のものもあるはずです。私自身、論じている人間の自己満足を目指すような「議論のための議論」には、何の興味もありません。
  • 「支援」は、「直接対人接触を持つ」ことだけでしょうか。 魅惑的なプロジェクトを提示し、誰かの自発性を起動できれば、立派な≪支援≫ではないでしょうか。 個人的接触だけでなく、「環境整備」を目指すことも、支援であるはずです。 ▼「何をもって支援となすか」自体が、きわめて政治的な論点だということに気付いてください。 (多くの人は、「甘ったれてるだけなんだから、支援なんて必要ない」と言っています。 政治的な立場として、大いにあり得る視点です。)
  • 「議論はやめて具体的に救え」という人には、たいてい「こうすればいい」という≪対案≫が何もありません。 「共感しろ」ということでしょうか。 しかしそれも支援の一方法論です。 選択肢の一つではありますが、どうして他の方法論を模索してはいけないのでしょうか。 実際に私は、≪課題共有≫という形で、対案を試みているわけです。
  • 「支援方法論のための議論はやめるべきだ」という見解は、それ自体が一つの議論です。