「不透明な弱者」と「怠け者」

ここ以下の引用は、すべて宮台真司氏 「粗野で乱暴なだけがネオコンじゃない」 からです。



不透明な「脱社会的」弱者

 かつて「食うための犯罪」がもっぱらだった時代には、犯罪に手を染める少年たちは「見るからに弱者」であり、「社会政策的措置の遂行」に合意を調達しやすかったのです。
 ところが、昨今の少年犯罪に見られるような、社会の中を生きていないかに見える──私の言葉で言えば「脱社会的」な──少年たちは、見たところ裕福な家庭だったり、成績も良かったりする。弱者どころの話じゃない。しかも「脱社会化」のメカニズムはそれなりに入り組んでいて、「コイツが諸悪の根元なのか」という具合に溜飲を下げられる単一ファクターが見つかるわけでもない。
 となると、当然ながら、犯罪の社会的背景を手当てする「社会政策的措置の遂行」も社会的合意が得にくくなり、「そんな悠長なことをやっているぐらいなら、つるしてしまえ!」という情緒的な反応に押されがちになります。

ひきこもりもニートも「弱者」とは見られていない。
不透明な「脱社会的」弱者は「当事者の甘ったれた主観のせいだ」に還元され、排除の構造的条件は不問に付される。



「怠け者」へのセキュリティ意識

 フリードマンは、60〜70年代のリベラルな再分配政策と、少数者重視のアファーマティブな政策が、怠け者をつけあがらせフリーライダーを蔓延させたと言います。社会はモラルハザードを来たし、都市や郊外の空洞化を招いて、犯罪の異常な増加を招いてしまったというわけです。  (中略)
 そこから、「弱者を支援するからつけあがる、弱者は自業自得だ、怠け者や犯罪者には徹底的に地獄を見てもらおうじゃないか」といった発想が出てくる。これがいわゆる「優勝劣敗」のネオ・リベラリズムであり、背景にはソシアル・セキュリティー(社会的安全)や、パブリック・セキュリティー(公共的安全=公安)に関わる不安の増大があったわけです。

「排除された責任はすべて当事者にある。 そういう連中がシステムの脅威になってはならない。 遺棄できないなら、徹底的に矯正せよ」

  • 当事者的には、「安楽死」という選択肢はつねに気になる。
    • ネオリベ的な人々が、被排除層に向かって「生命の尊重」を口にすることの欺瞞性についてはこちらで述べた。 弱者を「悲惨の中に放置する」冷酷さ。