上山 → 内藤 (11月10日)*2

内藤朝雄


『Freezing Point』の上山和樹です。
お忙しい中、お返事ありがとうございます。

わたしは議論になると同じ点よりも、違う点に興味が集中するタイプなので、まず、9割方賛成と前振りをして、おもむろに楽しい方をはじめます。

私はこれまで、仕事や発言を「否定」されることは多くても、傾聴に値すると思える真摯な「批判」にはなかなか出会えずにいたので、内藤さんのご指摘は、うれしい限りです。 とりわけまず次の箇所を引用します。

コミュニケーション・メディアが「真理」であるというルールを取っ払って、「当事者」らしさのムードであるということにすると、「ニセひき=ニセ当事者=ニセプロレタリアプチブルインテリ反動」といった憎悪を効果的に組織する者が勝つのです。

まったくです。
実を言うと、いわゆる「当事者たち」に「当事者風」を吹かされることでいちばん困惑、というか迷惑していたのも、私だったのでした。この点については、私は内藤さんと嫌悪感を共有しているように思います。▼この辺は、私自身が「当事者(経験者)」を名乗っていることもあり、泥沼のようなどうしようもなさがあります。


コミュニケーション・メディアは「ムード(雰囲気)」ではなく「真理」であるべきだ、という言い方に感銘を受けました。 ≪真理というコミュニケーション・メディア≫。
そう、お互いに真理をまさぐろうと試行錯誤すること、そこにコミュニケーションの掛け金があること。「勝敗」ではなく、「双方が真理を目指している」こと。完全にオープンな場所で為される、「議論」という共同事業。▼「真理を目指した共同事業」ではなく、「無条件に俺の言い分を聞け!」あるいはそのコインの裏側である、完全な黙殺――では、どうしようもない。「俺の言い分を聞け!」というエゴイズムの口実として「俺は当事者だ!」と言われては、こちらの合理的な反論は非合理に弾圧されるばかりで、議論のしようがない。「公正なジャッジのもとにおける議論と交渉」が、粘り強く試される必要があると思います。【それが不可能であるなら、「棲み分け」を模索するしかないと思います。】

論理的な矛盾を突くとか、統計データを示してでたらめな憎悪キャンペーンを論駁するとかいった、言論のアリーナは、論理的に矛盾だらけの言明をする人や、統計を無視して自分の体験だけで世の中全般を呪うタイプの「当事者」には、不利になるべきなのです。

まったくその通りです。
「私は当事者だ」「私はあなたより不幸だ」という主観的印象論――あるいは仮に「本当に」より不幸であるとしても――を免罪符に、論理的に矛盾しまくったことを言われる理不尽さ。絶対に認められません(私も何度も激怒してきました)。 ▼私が経験した自己矛盾は、たとえば次のようなものです。 http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/20050205#p1 【全部が「“当事者”による自己矛盾」というわけではありませんが。】

それを保持しないと文化大革命のつるしあげのようになります。文化大革命的アリーナでは、罵倒と断片論理をデザインするのに長けた最悪の策士が生き残ります。わたしがブログで常野氏に示してしまったかもしれない嫌悪感は、そういうところにあります。

これもほぼ同意です。
最近の常野氏自身はまだ揺れているようですが…、内藤さんと議論していたころの常野氏において、倫理性を問い詰める最終審級が《当事者》にあったとすれば、それは「属性としてのポジション(当事者であること)」と、検証されるべき「表明された見解内容そのもの」とを混同しています(「存在」と「内容」のショート)。【このあたりについては、ぜひ『こころの科学 (2005年 9月号) 123号 ひきこもり』に掲載された拙稿をご参照いただきたいです。よければ、ぜひコピーして送らせていただきます。】


不登校に関する歴史的な文脈上、「東京シューレ」あるいはフリースクールという集まりが果たした社会的機能があり、そこで「当事者」という《存在》が一定の機能を果たしたとしても、それが現在以降にどのように機能するかは新たに検証しなければならないし、現時点におけるシューレが、「存在としての当事者」を口実に「言葉としての当事者(貴戸さん)」を弾圧しているとしたら、これはそれそのものとして、「運動体」が孕み得る暴力として、指摘しなければならない。(その際、指摘主体が「不登校当事者」である必要はない。)


◆◆◆


――つまり、私が「当事者性」という事情にこだわっているとしても、それは合理性や事実確認といったチェックをクリアした上でのことです。(どんなに深刻な「当事者」であっても、論理破綻があったり、データを無視するようでは話にならない。)


「差別や排除の現実を無視しないためにも、いったんは一定の当事者性をカテゴライズして切り分けるべきである」という戦略上・あるいは保護的ケアの要請をひとまず措くとすれば、「当事者」ということで問われるべきポイントは――とりわけ「不登校」「ひきこもり」のような問題においては――、≪内的不調和≫の体験に存すると思います。


不登校や引きこもりにおいては、当事者の多くは「言葉を失っている」。それは単に「弱い」ということではなくて、何か異様な《不調和》が内的に経験されていて、それが本人の社会行動を不可能に、あるいは非常に困難にしている。→ 「あの異様な《不調和感》とは、何だったのか?」――ここに、「当事者感情」を構成する最も核心的な要素があるかもしれません。「体験した人にしか分からない」という、よく聞かれる呟きは、その異様な内面感覚の「理解されがたさ」において、一部説得的ではある。【ただし「当事者」は一枚岩ではなく、不登校経験者のすべてが内的不調和を問題化するわけではない。】 ▼それに比して、明白な「外的不自由さ」がある場合には、制度的設計に関する議論のみでよいし、そこで《内的不調和》を主題化する必要はない。【しかし、おそらくはこれも内的不調和に連動している。】 ▼最もクリティカルな要因が《内的不調和》にある場合には、その不調和の内実に関する報告なしには、苦痛緩和のための真理追求や、それに基づいた政策実現のための交渉も、難しいのではないか。――「当事者の証言」が必要なのは、そういう局面かもしれません。


すぐに気付くのは、「そのような《内的不調和》をことさらに《尊重すべきもの》として持ち出し権利主張するのは、単なる個人的なエゴイズム、わがままではないのか」ということです。そのように個人的な不調和感に固執している時点でその者の人格には「問題がある」のであり、社会性のなさを物語る、と。


◆◆◆


思うに、ここにはさらに厄介な問題が関わるように思います。私がお話を伺ったあるいじめ被害の経験者は、「納得するためには、加害者の奴らを殺すしかない」と冷静に打ち明けてくれました。そのかたの数年間におよぶ被害体験を聞いているうちに吐き気を催すほどひどい感情に襲われた私は、「殺すしかない」というつぶやきに深く同意していました:「殺すしかない」。 しかし、加害者を殺害することはこの社会では許されない。彼の被害体験は中学・高校時代であり、加害者は少年法に保護され、民事的にも時効であり、いっさいお咎めなしです。加害者連中は当たり前のように成人して「健全な社会人」として暮らしており、いっぽう被害者である彼は、重度のPTSDにより社会生活が送れない。この圧倒的な理不尽感・無力感――これが彼を二次的に、かつ継続的に傷つけている。「あまりに理不尽な状態に居留まる」ことは、その状態自体が傷を再生産する。▼《自分の体験だけで世の中全般を呪うタイプの「当事者」》――たしかにそのように言えると思います。この解消不可能の理不尽感が、「当事者=被害者」の主観を恐ろしく狭隘化し、融通の利かないものにしている。そしてこの要因が、論争を繰り返し阻害すると思うのです。合理的・客観的な反論が、理不尽感を増大することにしかならない。


重要なのは、怒りに狂う“当事者”が論争に参加する際、目の前の論敵は「かつての(あるいは現在進行形の)凶暴な理不尽感を再活性化させる契機(トリガー)」なのではないか、ということです。▼今の私は、たしかに目の前の人物に怒っている。しかしそれは、かつて経験した“あのアレ”の再体験でしかない(だから《現在》の論敵にとっては、「何を過激に怒ってるんだ?」と感じられる)。――精神分析で言う「転移」の問題です。かつての理不尽感の「代理体験」というよりも、その理不尽感が目の前でそのままリアルに再体験されている、そこで導火線に火がつき、激昂している。(釈迦に説法とは思いますが、確認のため説明を続けます。)


「トラウマ」という問題系に悩ましく付きまとうモチーフとして、「被害当事者の《証言》の信用ならなさ」があると思います。虚偽記憶症候群と疑われもする、「被害者の証言が論理的にも物証的にも支離滅裂」という状態のことで、これはダメージを負った人間の証言としては、原理的に避けられないものとなる。【私は、虚偽記憶の可能性を否定するわけではありません。「実際にあったかどうか」を決定する神様のような視点は、生身の人間にはあり得ない…。】


現状において様々な仕方で「当事者」と呼ばれる人のすべてが、犯罪・事故・災害・差別などの被害者と同質・同レベルの「傷」を受けているわけではない。しかし、ここでいう「当事者」というものが、何らかの仕方で社会的脱落・内的不調和・「承認の不在」をこうむり、そのことへの処遇をめぐって激烈な理不尽感に苦しむとすれば、《激怒の再体験》は、容易に人を狂わせ、たった1点に凝集した怒りの狭隘さに全人格を支配されてしまい得るのではないか(論理矛盾や客観データを無視させるほどに)――そういう要因があるのだと思います。(そして繰り返せば、そのようなものを認めるわけにはいかない。) ▼被害当事者の理不尽感(怒り)は、本人の「リアリティ」に基づいているのですが(それが「体験者以外には共有されにくい」とされる)、問題はそれがどの程度「合理性・客観性」――あるいは「公正・正義」――に照らし、社会的な権限を主張し得るか、だと思います。【「当事者である」と認めることは、「全面的にニーズを聞いてあげよう」ということではない。単に1交渉主体として承認するということであり、その限りにおいては「八百屋のにーちゃん」と変わらない。差別と排除において問題になるのは、「交渉主体として認められない」ということ。】


内藤さんのおっしゃる「他者のリベラリズム」は、“当事者”と呼ばれる人々の「理不尽感」を、制度的設計等において――「公正・正義」に基づいて――救済する努力(その方針)だ、と言えるでしょうか。だとしたら、私は内藤さんに全面的に同意できます。厄介なのはそのディテールです。▼社会的救済の対象となるべき理不尽感は、どこまで「個人的」なものであっていいのか。たとえば「不登校」は、それが単に「個人的な選択」でしかないならば、社会的ケアの対象とするべきではなく、当事者の抱く理不尽感や怒りは、社会的には遺棄されざるを得ない――というかそもそも、それは「当事者」としてはカテゴライズされない。あるいは内面的に抱えられた「違和感」は、それ自体としてはやはり「プライベートな経験」として、社会的救済の対象ではないのではないか。


誰かをあるカテゴリーにおいて「当事者」として認定しない、とは、「お前の抱えている理不尽感には傾聴に値するような情報がない」という政治的判断なのだと思います。一般の他者尊重のスタイル――傾聴の技法――だけで、お前の話はじゅうぶんに聞けるのだよ、と。


貴戸理恵さんから、面白い話を聞きました。「べてるの家」に行ったそうなのですが、そこから得た着想なのか、「一人ひとりが、個別の《自己病名》をつけてみる」、という試みです。「不登校の当事者」というと、これは大文字の《不登校》という問題設定に当事者性を収奪され、もって逆規定として自分は「不登校当事者である」という権限を手に入れるのですが、貴戸さんが言うのは、「大文字の当事者性とは離れたところで、自分ひとりだけの当事者性を(自分で)問題にする」という姿勢なのだと思います。――ここにこそ、内藤さん的な「他者のリベラリズム」との接点があり得るのではないか。大文字の「○○の当事者」という言い方は、さし当たっての政治的運動と、あとはそれに関連する鏡像的自己確認において一時的な安堵が手に入れられればいい。それである程度の居場所を確保した後は、《自己病名》における単独的・個別的な当事者性を生きればよく、そこには「○○当事者だから」という括りは必要ない(つまり精神分析でいう「自己分析」の手法です)。各人は、そういう完全に孤立した「単独的な当事者性」を生きると同時に、孤立状態では解消不可能の理不尽感について、ほかの他者たちに呼びかける。でき得れば、共同作業においてその理不尽感の解消に努める(たまさかにはその理不尽感を共有できる相手もいるかもしれない)…。


「他者のリベラリズム」も、「当事者主義」も、それぞれの仕方で《理不尽感》と闘っているのだと思うのです。ただその場合、「当事者である」ことのみで権限主張が越権的に増長したり、逆に当事者的特権化が機能しないために、「君の理不尽感は傾聴に値しない」と切り捨てられたりする。▼よって問題は、各人が「自分の理不尽感」を単独的に問題化し、そこから「私たちが共有的に問題化すべき理不尽感は何だろう」と呼びかけること、これではないでしょうか(そのためのツールとしての「真理」観であり、「合理・客観」観なのではないか)。


このように見ることは不可能でしょうか。つまり、《当事者主義》のうち、「自分自身を他者と見ることのできる当事者主義」と、「自己の他者性を抹消し、もって他者の他者性をも抹消する当事者主義」と。▼悪しき当事者主義(後者)においては、他者の他者性は抹消され、無条件的な自己肯定が他者に押し付けられ、権限濫用の思考停止が蔓延しますが、自分自身をも他者と見る当事者主義(前者)においては、《当事者》(自分を含む)とは、ものを考えるための開かれた場所、のようなものだと思います。 その場が確保されているからこそ、問いが深化され、自他の共存の問題が考え抜かれる。それは無条件的な受容の対象ではなく、自他が立ち止まってものを考える《場所》である。【語っている本人が「当事者である」ことが社会的機能を持つとしたら、それは全面的受容の対象としてではなく、《ものを考えるための場所》としてではないか。それは「一緒に考える」ということであり、「言っていることを無批判に聞け」ということではない。▼当事者以外が発言しているときには、考察すべき《場所》は発言者とは別のところにある。】 ▼こう考えれば、「他者のリベラリズム」と、「当事者のリベラリズム」は、踵を接する、というよりは表裏一体のように思うのですが…。そのために喫緊に重要なのは、「当事者の作法」を考案し、設定することのように思います。【暫定的に言えば、「当事者批評」という言葉で私が考えていたのは、このようなことでした。当事者自身の言動が、批評の対象となる必要がある。】


◆◆◆

わたしは不平等を、さまざまな個別の領域ごとに、許容できる範囲内のものと、許容できないものとに分ける必要があると思います。

なるほど。

言論のアリーナでの論理的思考能力に起因する不平等は、保持しなければならないと思います。

仮に論理的思考能力の低い人が参入するとしても、「能力が低いから間違ったことを言っていい」ではない。真理は真理として探究すべきで、間違った言説を甘やかすべきではない。――という意味であれば、全面的に賛成です。
難しいのは、「真理」のレイヤー(層)がちがう場合ではないか、とは思うのですが(すれ違いの多くはここで起こっている気もします)。たとえば最近ですと、『フリーターにとって「自由」とは何か』(人文書院)を出した杉田俊介さんが稲葉振一郎さんに「激怒」したのですが、どうもそこには、「政治哲学」について抽象的真理を追究している稲葉さんと、「介護の現場」で呻吟する杉田さんで、「真理のレイヤー」が違っている気がしたのですが…。【これはまったく暫定的な意見です。】

それから他者の海は、単数ではなく、複数で考えればよいと思います。他者の海は言論のアリーナがすべてではありません。海が一つしかなければおぼれますが、複数あれば別のコミュニケーション・メディアでぷかぷか浮いているでしょう。

それはそうなのですが、やはり決定的には、「経済的なコミュニケーション」の唯一性においてなんとか生き延びないと、ほかの海で浮いていても、けっきょくは溺れてしまうのではないか、ということです…。【私が地域通貨に興味を寄せ、実際にこれを試みたのは、「経済のアリーナを複数にする」という目論見ゆえでした。】


【以下、私的なメッセージゆえ略】


上山和樹